フェミニズム、マルクス主義、土壌主義

 このブログの「吉本隆明の亀山郁夫批判」でも述べたように、ドストエフスキーの唱えた土壌主義というのは、貴族である自分を養い育ててくれた人々(農奴や労働者)に対する恩を忘れないということにすぎない。もっと理屈っぽい言葉で言うなら、そのような人々との「有機的」なつながりを認識して生きるということにすぎない。
 しかし、なぜ貴族たちはそのような恩あるいは有機的なつながりを忘れるのか。それは彼らが傲慢であるからだ。私の言葉で言えば、自尊心の病に憑かれているからだ。彼らは自分たちはたいしたものだと錯覚し、自分を養い育ててくれた人々をバカにする。私はこのような事態について、「『貧しき人々』と隠された欲望」(1989)で述べた。要するに、マルクス主義思想の核心とはそのような恩を忘れるな、ということに過ぎないのである。
 また、このマルクス主義に対して述べた私の考えはフェミニズムにも当てはまる。要するに、男どもよ、自分を養い育ててくれた、あるいは、自分を産んでくれた女をバカにするな、ということがフェミニズム思想の核心なのである。
 私たちはしばしば自分がひとりで育ってきたように思い、思い上がる。そして、自分が足台にし、踏みつけにして、のし上がってきた人々のことを忘れ、忘恩のふるまいをする。お前はそれほど偉いのか、というのが、ドストエフスキーの土壌主義にこめられた怒りなのである。
 したがって、彼の土壌主義はマルクス主義フェミニズムと対立する思想ではなく、マルクス主義フェミニズムを支える思想にすぎない。しかし、ドストエフスキーはそのマルクス主義フェミニズムが物語の暴力、すなわち、硬直したイデオロギーになるとき、激しく批判する。そのような彼の批判が『地下室の手記』を始めとする彼の小説の中で述べられている。