ヒットラーの手法

 「内部の、そして外部の敵を探せ、そうすれば、われわれは団結できる!」
 このヒットラーの手法こそ、ドストエフスキーが『悪霊』で描いたピョートルの手法である。 
 オウム真理教はこのやり方を反復した。尼崎の大量殺人鬼・角田美代子もこのやり方を反復した。スターリンも、ポル・ポトも。今も世界中で無数の小ピョートルたちがこの手法で人々を扇動し、団結している。彼らこそ、われわれの敵なのだ。彼らを殲滅せよ!、そう言うと、彼らと同じことをしていることになる。これはしてはならない。断じてしてはならない。
 では、こういう手法に乗せられないためにはどうすればいいのか。
 それは自分の頭で考える習慣をつけることだ。
 どうすれば、そういう習慣は身につくのか。それは生まれ落ちたときから知らぬ間にわれわれの身についた儒教的な共通感覚(常識)を打破することだ。
 どうすれば打破できるのか。それはまず、「論語」を熟読すること。そして心ゆくまで共感し、しかるのち、身をもぎ離すこと。でないと、自分が論語で述べられたことと同じことをしているのに気づくことができない。
 で、なんとか自分の頭で考えられるようになったら、できるだけ早く、ドストエフスキーを読むこと。また、アランやシモーヌ・ヴェイユを読み、アランとその師ラニョーの関係、またシモーヌ・ヴェイユとその師アランの関係をいつも思い浮かべること。これは一例に過ぎない。プラトンでもハナ・アーレントでもいい。内村鑑三森有正でもいい。
 では、なぜ、たとえばラニョーやアランなのか。それは、彼らがその弟子たちに罵倒され乗り越えられることを心から歓迎したからだ。このような師弟関係をもつことによって初めて、わたしたちの儒教精神(仁、忠、孝)、あるいは、われらの内なる天皇制から身をもぎ離すことができる。
 天皇制とは、じつは、クリスチャンの山本七平も言うように、私たちの血となり肉となっている儒教精神のことなのだ。われらの内なる天皇制から身をもぎ離すことができたとき初めて、私たちは私たちの文化を相対化し、天皇制を歴史的な必然として認めることができる。これは天皇制を盲信することとは違う。決定的に違う。「君が代」を歌っているかどうかを、口元を見て「チェック」するような精神とは決定的に異なる。
 このようになったとき初めて、私たちは先の戦争を起こしたような愚を反復しない民族になることができる。

(次のツイッターを見て、本文を書こうと思いました。筆者の方に感謝します。:https://twitter.com/Copy__writing/status/426170109816610816/photo/1