死の受容

 私は昔、キューブラー=ロスの『死ぬ瞬間』における「死の受容」の各段階を不登校児およびその伴走者である親の心理に当てはめて述べたことがあります。その大要は大阪のある不登校児をもつ親の会の会報に「お父さんのための不登校講座」というふざけた名前の連載エッセイで書きました。また、その一部を大阪府立大学の「現代思想研究会」でも述べました。
 これは、ロスのいう、私たちが死に直面したときの「否認→怒り→取引→抑鬱→受容」という心理過程が、そのまま不登校児およびその伴走者である親の心理過程に当てはまると気づいたからです。
 子供が不登校になると、親は子供が不登校であることを認めることができませんし、子供も同様で、そういう自分を認めることができず、むりやり学校に行こうとします(否認)。しかし、どうしても行けない。そこで、親子とも怒り狂う。子供は行けない自分が情けなく親に八つ当たりをし、親は親でそういう子供を叱る(怒り)。そこで、何とか行ってくれるよう、子供に働きかけ、心理療法や行動療法を用いて子供を学校に行かせようとする(取引)。でも、行けないのでがっかり(抑鬱)。そしてやがて子供も親も子供の「社会的な死」、つまり「不登校」を受け入れる(受容)。しかし、この受容からすべてが始まる。つまり、不登校児も親もそれ以前の自分が死ぬことによって、新しく生きることが可能になる。どのような生き方か。それは各自それぞれで異なる。ただ、その生き方が、学校やこの社会の常識に拘束されない生き方であることは確かだろう。一方、この受容の段階に至ることのない子供や親はどうなるのか。そこには精神の病、親殺し、子殺し、一家心中など、再生ではなく、肉体的・精神的な死が待っている。
 記憶をたどって叙述しましたが、だいたいこういう内容だったと思います。これは宗教的回心の過程に似ています。宗教的回心もまた、自分の社会的な「死」を前にして、否認し混乱することから始まります。その過程を鮮やかに描いたのがドストエフスキーの作品です。また、ドストエフスキー自身、この過程をたどって回心に至りました。この過程は自らの自尊心の病に気づいてゆく過程です。

キューブラー=ロスについては、こちらを参照。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%AA%E3%82%B6%E3%83%99%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%AD%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%BC%EF%BC%9D%E3%83%AD%E3%82%B9