新聞

 私が新聞に載ったのは後にも先にも一回きりだ。
 それは中学生の頃、たしか当時の郵政省のきもいりで「郵便友の会」というのが出来、なぜか私がその会の会長になったときのことだ。
 会長といっても、会員はたしか四人だけだ。いや、もっといたかもしれないが、今となっては記憶がうすれている。はっきり覚えているのは、その副会長か書記になった女生徒と私の関係について担任の技術を教えていた男の教師にからかわれたことだ。
 「おい、お前、あいつが好きなんだろう。へっへ。」というような口調だったと思う。
 今から思うと彼女は美しかったが、私は関心がなかった。というより女性に関心がなかった。と言うと、同性愛者であったのかというと、そうでもなく、今になって思い出してみると、いったい何を考えていたのだろうと思う。
 「郵便友の会」の顧問が下村先生だった。たしか下村泰道といって、浄土宗か浄土真宗のお坊さんだった。亡くなられたあと、加古川のそのお寺のそばまで行ったが、小さな、こう言ってはなんだが、貧乏くさいお寺だった。
 先生は社会科を教えていた。授業中に「檀家が少なくてね、こうして教えているんだ。」とよくこぼした。
 授業はだいたい脱線に次ぐ脱線で、教科書はあまり進まなかった。とくに教科書に戦争の話が出てくると、ここぞとばかりに自分が従軍したときの話になり、戦場での無残な話を長々とした。じつを言うと私はあまり覚えていない。聞くまいとして、白昼夢を見ていたのだろう。
 そうなったのは、家に帰ると、食事の時、やはり長いあいだ戦争に行っていて、捕虜にまでなって帰ってきた親父が同じような無残な話を延々とし、お袋がそれと競うように、広島の原爆で死んだ友人の話や自分が働いていた呉の軍需工場が爆撃されたときの話などを始め、腕がちぎれたのを集めたとか、腹が裂けたのを縫ったとか、そういう無残な話を延々とするので、もはや、うんざりしていたからだろう。
 彼らはなぜそんな話をしたのか。戦争反対というような教育的な配慮からでないことはたしかだった。話し出すともう止まらないから止められなかっただけだろうと思う。
 下村先生の右手には指が何本かなかった。途中でちぎれているのもあるし、根っこからないのもあった。それと、耳がどちらだったか聞こえなかった。びっこもひいていた。「この指はヤクザじゃないよ、爆弾でやられたんだ。」と言っていたが、私はあやしいものだと思っていた。下村先生は先生やお坊さんという感じではなかった。それではどういう感じかというと、どうも言いがたい。この世の人ではない感じだと言えばいいのか。
 私は下村先生にヴァイオリンを一年ほど習った。どうしてそんなことになったのか分からない。先生がほとんど指のない右手で弓をもってヴァイオリンを弾いたのを聴き、教えてくれと言ったからかもしれない。「ユーモレスク」を弾けるようになったとき中学を卒業した。それ以来ヴァイオリンは弾いていない。弾いていないのは、ヴァイオリンを持っていなかったからだ。先生のヴァイオリンを借りていただけだ。教則本の名前も忘れてしまった。しかし、今でもヴァイオリンの教則本の甘ったるい臭いだけは覚えている。
 「郵便友の会」というのは、当時、文通というのが流行っていて、その流行を利用しようとしたのか、郵政省のたくらみで出来た団体だったようだ。日本各地だけではなく世界各地の子供たちと文通しよう、という運動を推進しようとしていた。今から思うと怪しい運動だが、その運動に私がむりやりのせられて、会長にさせられたということだったと思う。当時私は何にも考えていなかったので、下村先生に言われるまま、ほいほいと話に乗っただけだろうと思う。
 それから世界各地の「ペンパル(文通友達)」にせっせと手紙を書いた。書いたといっても、英語のお手本を写しただけだ。すると困ったことに返事が来て、英語の先生に見せて意味を教えてもらおうとしたが、「勝手にやってね。」と言われて追い返された。下村先生に見せても、「うーん。」とうなるだけだった。こうして謎の手紙がたくさん溜まり始めた。私は辞書を引いて、だいたいこういう意味かと勝手に判断して、また、『ペンパルガイド』の英文を適当に写して送った。送料は郵便局持ちである。すると、さすがにこれはおかしいと思ったのか、今度は少ししか返事がこなかった。ということで、何回かするうちに一人だけになった。今でも覚えているがその女の子はニューヨークのブルックリンに住んでいた。こちらの英語能力を察知して、ほんとうに易しい英語を書いてくれる優しい女の子だった。
 ところが、あるとき、その女の子の手紙に写真が同封されていた。あなたも写真を送って下さいと書かれていた。こう言ってはなんだが、まるで狐が風邪を引いたような顔をしている女の子だった。私はがっかりし、返事を書かなかった。すると、また手紙がきた。そこで、ぼくはこれから勉強が忙しくなるので、残念だけど、もう文通はできないのです、と書いて送った。胸がぎゅっと痛くなるほど恥ずかしい嘘だったけれど、あなたの写真を見てがっかりしましたなどと書けないので、しかたがなかった。それで文通は終わった。
 私以外の「郵便友の会」の会員は何をしていたのだろう。今となってみればほとんど記憶がない。彼らは国内の誰かと文通をしていたのか。かすかにそういう記憶もあるが、海外の子供と文通をしていたのは私だけだったように思う。
 一年ほどそういう友の会の活動をしたあと、郵政省から活動報告をしなさいという命令がきた。会長だった私がわら半紙にその活動内容を書き、書記の美しい同級生が清書し、郵政省に送った。そして、しばらくすると、郵政大臣賞を与えられたのである。このため、新聞社に呼ばれ、インタビューを受け、当時としては珍しかった大型のテレビを贈呈された。当時の郵政大臣迫水久常氏だった。
 どういう内容を話したのか忘れたが、しばらくして出た写真入りの記事を見て、新聞社というものはずいぶんデタラメなことを書くものだと驚いたことだけは記憶している。それ以来、新聞を読むとき、眉に唾をつけて読む習慣ができた。この習慣は大学に入ってロシア語を習い、ソ連の新聞を読むようになってさらに確固としたものになった。ソ連共産党の機関誌『プラウダ(真実)』の書く内容はほとんど真実ではなかった。今ではどんな新聞も同じように疑わしいと思っている。『朝日新聞』、『産経新聞』、『赤旗』、『世界日報』・・・すべてが同じように疑わしいのである。テレビも同じだ。それが正しいか否かを判断するのは私の経験と頭脳だけだ。