教会ひとり


 これは某年某月某日「中江藤樹記念館」で撮った写真。
 私はこの額縁に収められた藤樹の言葉をそのまま肯定する。これは私に儒教の精神が徹底的に染みこんでいるからだ。
 中江藤樹儒教孔子が始祖)の一派である陽明学を日本に広めた近江聖人と呼ばれた人だが、私は藤樹の書き残したもの、たとえば『鑑草(かがみぐさ)』などを読んで疑問を覚えたことはまずない。それはそれだけ私の中に子供のときから読んできた『論語』の教えが強く深く根を張っているからだ。
 儒教性善説に立つ。人間の心というものはもともとは善なるものであるので、その善なるものを覆い隠しているものを教育などによって取り払っていかなければならない、と説く。
 これに対してユダヤキリスト教性悪説に立つ。人間は罪を犯したため神の国から追放された存在なので、常にその罪を自覚し、神のもとに帰るよう準備しておかなくてはならない、と説く。
 このまったく正反対と見える世界観には相通じるものがあると英語で世界に向かって述べたのが内村鑑三(『代表的日本人』)だ。彼は結局は非人間的な行為を肯定することになる日本的集団(天皇制)を受け入れることができなかった。さらに、彼はクリスチャンだった。そこで、彼は日本人によって構成されていた、つまり天皇制(あるいは集団主義)が浸透しているかもしれない日本のキリスト教会には入らず、個人主義者として教会をつくった。これが内村の無教会派キリスト教だ。「劇団ひとり」ではなく「教会ひとり」。私はこのような内村を肯定する。日本人としては内村のような生き方しかできないのではないか、とさえ思う。言葉足らずだが、それはいずれ捕捉しよう。