オリンパスと読売

 最近マスメディアで伝えられているオリンパスと読売の出来事は、「天皇制」が日本ではいまも健在であることを明らかにしただけだ。要するに、日本とはいまも菊川剛(オリンパス)や渡辺恒雄(読売新聞)など、無数の小天皇たちをいただく社会なのだ。というようなことを述べるマスメディアは日本には存在しないだろう。天皇制批判はタブーなのだ。
 この天皇制という言葉は今から40年ほど前、イザヤ・ベンダサンこと山本七平が日本社会を批判するとき使った言葉で(イザヤ・ベンダサン、『日本教について』、文藝春秋、1972)、そのとき以来、私は日本社会の「タコツボ」(丸山真男)、「二人称関係」(森有正)、「甘えの構造」(土居健郎)などについて述べるとき、いちいちそう述べるのは煩わしいので、そのような事態を一括して「天皇制」という言葉で指すことにしてきた。
 また、そのとき以来、天皇制を批判している山本がなぜ右翼のように言われるのか理解できないまま現在に至っている。山本が右翼だという人は山本の書いたものを読んだことがないか、読んでも理解できないのだと思う。
 これは西部邁についても同じだ。西部の『ソシオ・エコノミックス』(中央公論社、1975)や『60年安保――センチメンタル・ジャーニー』(文藝春秋、1986)などを読めば、西部が一貫して批判し続けているのが自分も含めた日本の大衆であることは明らかなはずだ。排外主義者でもない西部がなぜ右翼と呼ばれるのか。不思議なことだ。