話しても分からない

 自尊心の病に憑かれた人には話しても無駄だ。そんな人は相手の言うことを分かろうとはしない。話せば話すほどその人を激昂させるだけだ。だから、私はそんな人には何も話さない。沈黙するか、さっさとその場を立ち去るだけだ。私のことを無愛想だという人がいるが、私は無愛想なのではない。話しても無駄だから立ち去るだけだ。
 私のいう「自尊心の病に憑かれた人」とは、これまで何度も述べてきたように、いつでも相手の一枚上を行こうと思っている人のことだ。このような人々をルネ・ジラールは「ロマン主義者」と名づけている。私のこれまでの狭い経験から言えば、大半の人がジラールのいうロマン主義者であり、自尊心の病に憑かれている。その病に憑かれていない人、つまり、無への運動の中に生きている人、つまり、相手の一枚下を行くのを何とも思っていない人は少ない。少ないがいることは確かだ。だから、たくさんの人に向かって喋るとき、私はそういう人に向かって喋る。「話せば分かる」というのは嘘だ。話しても分からない人がいる。そういう人がいることに落胆したりはしない。なぜなら私も昔は自尊心の病に憑かれていたからだ。私が自分の自尊心の病に気づくことができたのだから、他の人だって気づくことができるはずだ。
 なぜ話しても分からないのか。それは自尊心の病に憑かれた人は何事につけ、まず何よりも自分の自尊心を守ることを優先させるからだ。言い換えると、無私への運動の中で、事態を正確に捉えようとするより、自分の主張や思い込みを守り、自尊心を守ろうとするからだ。だから、そんな人にとって、事実などはどうでもいいことだ。自分の思い込みだけが大事なのだ。彼らは自分の思い込みが誤っていたと認めることに耐えられないのだ。
 たとえば、しばしば昭和天皇に先の太平洋戦争を遂行した責任はあるのか、という問いをめぐる議論が繰り返される。こんな問いが反復されることじたい奇妙なことだ。なぜなら、昭和天皇大日本帝国陸海軍の最高指揮官だったのだから、戦争に責任があるのは当然であるからだ。天皇満州事変のさい、自分の一命を賭して好戦的な世論をあおりたてる新聞などマス・メディアや軍部の暴走を阻止したとすれば(当時そんなことができるのは天皇しかいなかった)、中国への侵略も米国との戦争もなかっただろう。だから、事実だけ見れば、昭和天皇に戦争責任があったことは明らかなのだ。それにも拘わらず、天皇に戦争責任ありやなしや、という問いが繰り返されるのは、東京裁判東条英機を始めとする軍の責任者が死刑の判決を受け処刑されたからだ。つまり、昭和天皇東条英機たちとともに処刑されるべきではなかったのか、という問いが繰り返されているのだ。そして、天皇が処刑されることになれば、天皇家の存続は不可能だということになり、天皇を国家の象徴にいただく天皇制は崩壊する。従って、まわりくどいことだが、天皇に戦争責任ありやなしや、という問いを反復するのは、われわれは天皇制を認めるのか否かという問いを反復していることになる。
 このため、かつて天皇の戦争責任を認めた本島長崎市長が右翼に銃撃されたり、慣習としての天皇制を認める発言を繰り返していたのだけなのに、西部邁が左翼から自宅を放火するという脅迫を受けたりした。その他、天皇制をめぐるテロ事件はおそらく無数にあるだろう。こんなことになるのは、天皇制を肯定するにせよ否定するにせよ、天皇制をめぐる自分の思い込みが強ければ強いほど、その思い込みを守ろうとする自尊心の病が激しいものになるからだ。言い換えると、天皇制を肯定(否定)する者は天皇制を否定(肯定)する者に自分を否定されたように感じ、その相手の一枚上を行こうとする。その行き着くところがテロだ。
 この天皇制をめぐる問題と類似の問題は私たちのまわりに無数にある。私が20年以上前から経験している例をひとつ挙げると、不登校は病気か否か、という問題がある。なぜこんなことが問題になるのかと言えば、当時も今も、医者や教師の中に、不登校児を病人として治療しようとする人が多いからだ。今でも石原慎太郎のように戸塚ヨットスクールを賞賛する人がいるが、20年前も石原のような、あるいは石原のように声を上げないとしても内心では不登校児を病気だと思い、治療しようとする人が多数派を占めていたように思う。だからいつも愚かな世論をあおりたてる(つまりロマン主義的な)石原のようなポピュリズム政治家が戸塚ヨットスクールを賞賛するのだ。
 彼らは不登校や引きこもりは病気なのだから、病院で治療したり戸塚ヨットスクールのようなところで矯正しなければならないという。不登校や引きこもりの当事者およびその伴走者である親の多くからすれば、これはあまりにも乱暴な言葉だ。そんなことを言う者は明らかに不登校や引きこもりの実態を知らない。それなら、どうすればいいのか、と問われれば、答を持たないので苦しんでいる、不登校や引きこもりの子供をもつ親は困るだろう。しかし、彼らの多くは自分の経験から、少なくとも不登校や引きこもりが医学などによる治療の対象でないことを漠然と感じているのである。だから、ここで石原のような不登校に無知な人物に不登校や引きこもりとはこういうことで、と説明してゆけばいいのだが、石原のような自尊心の病に憑かれた人物、つまり、ロマン主義者は人の話を聞かない。すべての機会をとらえて相手を見下そうとする。そして、「不登校は病気だ!」と断言する。また、石原ほど極端ではないが、その多くが基本的には石原と同様の病に憑かれたロマン主義者たちである民衆も、石原と同じように不登校児を見下し、「不登校は病気だ!」と断言する。
 そこで、不登校児をもつ親にしても自尊心の病に憑かれているロマン主義者が多数を占めるので、自分の子供が見下されたことにかっとなり、自分では漠然と思っているだけなのに、「不登校は病気ではない!」と断言してしまう。売り言葉に買い言葉ということだ。
 このような自尊心の争いがこれまで繰り返されてきたし、今も繰り返されている。しかし、大事なのは、そんな自尊心の争いではない。事実に向き合ってお互いにじっくり不登校について考えなければいけない。それなのに、お互いの自尊心の病のため、冷静に議論ができない。このため不登校や引きこもりの実態がいつまでたっても見えてこないし、その問題の解決の糸口さえ見つからない。天皇制の問題とそっくりだ。このような「話しても分からない」問題はパレスチナ問題から家庭内のもめごとまで無数にある。自らの自尊心に気づくことからすべてを始めなければならない。そうでなければ不毛な争いだけがいつまでも続く。