金啓子様に

 金啓子様に(4月22日付けのコメントに答えて):
 コメント欄では読みにくいかもしれませんので、ここで答えます。
 失礼しました。四天王寺の婦人会館の道路を隔てたところにあるのはお寺でした。「あんさん、別れなはれ」とかで有名な尼さんがいた寺でしたか。
 ラスコーリニコフがマザコンですか。そう言ってしまえばおしまいです。
 ラスコーリニコフはソーニャに依存し、甘えているわけではありません。また、『地下室の手記』の男もリーザに甘えようとしているわけではありません。彼らのあいだに成立している、あるいは、していないのは、キリスト教でいう「隣人愛」です。
 授業でも言いましたが、「隣人愛」というのは、独立した人格同士のあいだに成立する事態です。甘え合った者のあいだで隣人愛は成立しません。甘え合った者のあいだに成立するのは、「依存」であり、操作・支配の関係です。
 すでに拙稿(「わが隣人ドストエフスキー」など)で述べたことですが、ドストエフスキーの回心はこの「依存」(あるいは「甘え」)を乗り越えてゆくさいに生じます。ドストエフスキーを「甘え」の作家だという研究者がいますが、それは半分しか当たっていません。
 また、福中さんを知らずに言うのは良くないのですが(まったく良くありません。福中さん、間違っていたら、ごめんなさい。)、金さんのお話を伺うかぎり、他民族への侵略に対して福中さんの目を曇らせているのは、自分が自己防衛の強い人間であり、人を上から見る人間であることに気づいていないためのように思います。つまり、彼女は『地下室の手記』以降のドストエフスキーとは対極にある人のように思います。亀山郁夫を始めとして、ドストエフスキー研究者にも福中さんのような人は多い。彼らはドストエフスキーをモノローグ的に捉えます。
 授業で繰り返し言っていることですが、福中さんのような自尊心の病に憑かれた人(私たちは皆、その病に憑かれています)は、自分も含めて、人を上から見ます。従って、そのような自尊心の病に憑かれた人は、相手をありのままに受け入れ、他人と対等な人間関係を結ぶということができません。また、そのような人は事実をありのままに見ることもできません。彼らの一番の関心は、自分が相手を支配できるかどうかということだけですので、その欲望のため、事実を自分に都合が良いようねじ曲げてしまいます。
 彼らは人間関係を勝ち負けで見ますから、いつでも、自分は誰それよりも上だとか、下だとかいう風に思っています。「負けず嫌い」なんですね。
 私の経験では、私も含めて、すべての人が負けず嫌いです。イエス・キリストだって負けず嫌いです。
 しかし、イエス・キリストは自分のその自尊心の病に気づいています。ドストエフスキーも『地下室の手記』以降、気づき、事実をありのままに見、相手をありのままに受け入れることができる人物、たとえば、リーザやソーニャのような人物が彼の小説に登場し始めます。
 だから、自尊心の病に憑かれているかどうかが問題なのではなく、それに自分がどこまで気づいているかが問題なのです。自分が自尊心の病に憑かれていると気づけば、それはもうその病が癒えたのも同じです。自尊心の病に振り回され、事実をひん曲げて見たり、相手を自分の思うとおりに支配しようとしなくなりますから。福中さんは自分が自尊心の病に憑かれていると気づいていないのでしょう。
 金さんが言われるように、民族を越えて社会的平等を実現しなければなりません。社会的に不平等があるかぎり、差別されている人は、二重の意味で差別されることになります。つまり、社会的に下に見られ、そして、心理的に下に見られるという風に、二重に差別されることになります。
 しかし、ここで、問題なのは、人間はそのままでは差別を求める動物(いろんな意味で人より上に立ちたい、という自尊心の病に憑かれた動物)なので、社会的平等を実現するのがほとんど不可能だということです。
 これが昨年授業でやった『カラマーゾフの兄弟』の「大審問官」伝説のテーマでした。 一国内だけでもこの差別を解消するのはきわめて困難だということは、ソ連の壮大な実験やポルポトカンボジア、中国の文化大革命、それに北朝鮮の現状が示していることです。この差別解消の試みが失敗したために、分かっているだけでも、これまで一億人以上の人が犠牲になりました。実際はもっと多いでしょう。
 まして、民族を越えて、社会的不平等を是正するということになると、そこにナショナリズムの問題がからんできますので、ほとんど絶望的なように思います。
 従って、社会的不平等は一挙に解決するのではなく(一挙に解決しようとすれば、ポルポトの惨劇が繰り返されます)、試行錯誤を繰り返しながら、少しずつ是正してゆく他はないと思っています。そのためには、まず、多くの人が自らの自尊心の病に気づかなければなりません。いくら形式的に「上から」社会的平等が実現されても、自尊心の病に気づいている人が少数派であれば、「大審問官」伝説の悲劇が反復され、ソ連のように混乱のうちに崩壊してゆきます。ドストエフスキーを読む意味はここにあります。
 この自尊心の病については、まず、拙論「ドストエフスキーの壺の壺」を読んで下さい。
 なんだか授業みたいになってしまったな、反省(笑)。

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 読み直して、かなり訂正しましたが、まだ言いたいことが十分言えていません。詳しいことは、私がこれまで書いた論文を読んで下さい。また、授業でも説明します。(4月24日午後7時)

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さらに一箇所、文を修正しました。(4月25日午後5時)