「引きこもり」私感

 きなりさんという方からコメントを頂いたけれど、きなりさんによって指摘された問題が私の力を超えていて、正確に応答することができなかった。自分以外の誰かを助けることができればいいのだが、それは私たちには不可能だ。これは人間にとって、自分のエゴイズムから抜け出して自分以外の誰かを助けることが不可能なためだ。私たちがエゴイズムに囚われているかぎり、誰かを助けることはできない。ところが、人間という動物の特徴はエゴイズムに囚われているということなのである。ほとんどの場合、私たちは誰かを助けていると思っているが、それは自分のエゴイズムを満たしているだけなのだ。これは皮肉ではなく、嘘偽りのない裸の真実にすぎない。助けたあとの自分の顔を鏡で見るがいい。じつに満足げな表情をしているはずだ。自分がそんな卑しい顔をしていることに気づかない者は、誰かを助けているつもりなっているだけで、事実は、その相手に激しい暴力を加えているのである。私はこれまで無数にこのような間違いを犯してきた。相手から殺されなかったのが不思議なくらいだ。
 しかし、こんなことを言っていると、私たちは誰をも助けることはできない。助けを求める人は絶えない。だから、誰かを助けるとき、私たちは匿名でなければならないのだ。匿名であるときだけ、私たちは自分のエゴイズムから逃れることができる。このことをドストエフスキーは、ドミートリイが「誰がこんな親切なことをして下さったのですか」と叫ぶ場面(『カラマーゾフの兄弟』[第3部第9編8])で描いているのだ。
 もっとも、いつもいつも匿名で誰かを助けるわけにはゆかない。そんなときは、もう匿名であることを諦め、何も考えず、援助を求めている人がいれば、自分に可能な範囲でその人を助けよう。そして、助けたことなどさっさと忘れよう。そして、もし本当に誰かを助けることができたとしたら、それは自分以外の何かの力のためなのだ。そのようなことは、ふつう、私たちには起きない。私たちが「無」となって神とともに生きていなければ、そんなことは起きない。そんなことは私たちにとって望んでも不可能なことなのだ。しかし、ときどき、私たちにはそういうことが起きる。たぶん誰でも経験していることだろう。私にもときどき起きる。そのひとつの例として次のPDFファイルを読んでほしい。助けた相手が自分の子供だったから書くことができた。自分にも同じことがあったとうなずく人は多いだろう。
「引きこもり」私感.pdf 直