「大きな引き出し」

 【亀山訳7】
 彼は二度結婚し、三人の子どもをもうけた。長男のドミートリーは最初の妻とのあいだに生まれた子どもで、残りの二人、すなわちイワンとアレクセイは二度目の妻とのあいだに生まれた。フョードルの最初の妻は、かなりの資産家でこの土地の地主でもあった名門貴族ミウーソフ家の出身だった。持参金つきの上に器量よし、おまけに利発な才女であるお嬢さんが(今の世代ではめずらしくないが、その昔にもすでに姿を現していた)、よりによってどうしてこんなろくでもない、当時まわりから「のらくら」とあだ名されていた男のもとに嫁ぐはめになったか、ここでくどくど説明するのはやめておく。
 いわゆるロマンチックな気風の残る二世代前のことだが、わたしが知っていたある娘などは、何年ものあいだ、とある紳士に謎のような恋心をよせ、その気になればつつがなく結婚にこぎつけられたはずが、けっして越えられない壁があるように思いこみ、ある嵐の夜、断崖のように切り立った川岸からかなり深い急流に身を躍らせ、命を絶ってしまった。
 それはもう身勝手というしかない気まぐれが原因で、娘にすれば、シェークスピアの女主人公オフェーリアにあやかりたい一心で事におよんだのだ。しかも、娘が前からめぼしをつけ、たいそう気に入っていた断崖が、かりに絶景と呼べるようなものではなくもっと散文的でのっぺりした岸であったなら、こうした自殺騒ぎなどとうてい起こらなかったはずである。
 しかしいまここに述べたことはまぎれもない実話であって、思うに最近二、三世代のロシアでは、こういうたぐいの、あるいはこれに似たような事件が少なからず起こってきた。同じように、フョードルの妻アデライーダがとった行動は、あきらかに他人の思想の受けうりであり、これまた「囚われとなった思考のいらだち」の結果だった。
 彼女にしてみれば、たぶん女性の自立を宣言し、社会的な制約や、親戚、家族の横暴に反旗をひるがえしたかったのだろう。そこで彼女は、たとえ一瞬にせよ、たんに居候の身にすぎないフョードルが、よりよい未来へ向かう過渡の時代に生きるこのうえなく勇敢でシニカルな男性のひとりであるという、おめでたい空想のとりこになった(そのじつ、彼は腹黒い道化でしかなかったが)。おまけに、事が駆け落ちで落着するという点も刺激的で、それがいたくアデライーダの興をそそったらしい。
 他方フョードルは、自分が置かれている社会的立場からしても、こういううまみのある話には、待ってましたとばかりに飛びつく腹づもりだった。なぜなら彼は、たとえどんな手を使ってでも、出世がしたくてうずうずしていたからである。名門の貴族と縁をむすび、持参金をせしめるというのは、なんとも誘惑的な話だった。
 で、二人の愛情についていえば、花嫁の側にも、またアデライーダの美貌にもかかわらず花婿のほうにも、それらしきものはまったく芽生えなかったらしい。というわけで、ちょいと色目を使われただけでどんな相手でもたちまちべたつく好色きわまりない男で通したフョードルからすれば、アデライーダとのこの出会いは、一生に一度かぎりの事件だったといえるだろう。ついでながら彼女は、性的な面で彼にいっさい感興を呼びおこさなかったただ一人の女性だった。

 以上が原文ではひとつの段落。こんなに長い段落だと、つい亀山みたいに短い段落に分けたくなるかもしれない。しかし、そんな誘惑に乗ってはいけない。その理由についてはすでに「段落問題」「アレクセイなんて偉大じゃない?」のところで述べた。もう少し詳しく説明しておこう。
 結論から先に言うと、ドストエフスキーのような長編作家にとって段落とはひとつの「大きな引き出し」みたいなものだ。その引き出しの中にさらに「小さな引き出し」があり、さらにその小さな引き出しの中に「もっと小さな引き出し」がある、という仕組みなのである。この「引き出し」というのは、先の「作者の言葉」のような理屈っぽい話では「ひとかたまりの思想」であり、今の場合のような段落では、それは「ひとかたまりの物語」だ。このような思想にしろ物語にしろ、それは私のいう「物語」だ。詳しくは、拙稿「物語はなぜ暴力になるのか」を見ていただきたいが、私のいう「物語」とは、「ストーリー(事実)」と「プロット(事実を結びつける因果関係)」から成る。
 いま段落という「大きな引き出し」あるいは物語を、大文字のA、B、C・・・という風に表そう。また、その「大きな引き出し」A、B、C・・・に含まれる「小さな引き出し」あるいは物語を、小文字のa、b、c・・・という風に表そう。さらに、その「小さな引き出し」a、b、c・・・に含まれる「さらに小さな引き出し」あるいは物語を、数字の1、2、3・・・で表そう。
 たとえば、A=a(=1+2+3+・・・)+b(=1+2+3+・・・)+c(=1+2+3+・・・)+・・・という風になり、B、Cなどについても同じようになる。言うまでもなく、A、B、Cなどのそれぞれに含まれる各要素は同じ記号で表してはいるが、それぞれ異なったものであり、一回きりの個性を持つ。
 要するに、段落というのはさまざまな物語や思想を統合している「大きな引き出し」なのだ。これを亀山みたいに、その大きな引き出しから小さな引き出しを引っ張り出して外に並べ、もう大きな引き出しなどに用はないと言って、それをポイと捨ててしまえば、ふたつ困ったことが起きる。
 ひとつは、その大きな引き出しの中に、どの小さな引き出しが入っていたのかがさっぱり分からなくなるということだ。たとえば、この段落ではフョードルとアデライーダの「遭遇と接近」が、次の段落では二人の「離反と別離」がテーマになる。このそれぞれのテーマをもつ物語の中に、さらに短いさまざまな物語(「小さな引き出し」)が入っているのだが、亀山のように「大きな引き出し」を捨ててしまうと、読者は「小さな引き出し」をどう扱えばよいのか分からなくなる。私たちはアナーキーな事態に長く耐えることはできない。このため、結局、読者の多くはその事態から抜け出そうと、意識的あるいは無意識的に、自分勝手に「大きな引き出し」を作り、亀山によって作られた亀山風「小さな引き出し」をそこに放り込む。こうして作者は亀山によって二重の暴力を受ける。ひとつは段落を恣意的に分けられたことによって、もうひとつは、その亀山風段落を読者が恣意的に統合し誤読することによって。一方、亀山風段落を自分勝手に統合することができない「謙虚な」読者は(これこそドストエフスキーの真の読者なのだが)、亀山風段落をどう扱ってよいのか分からず、右往左往する。
 もうひとつ困ったことは、「大きな引き出し」を捨ててしまうと、それと同時に、その大きな引き出し同士が作り出すプロットも捨てられてしまうということだ。たとえば、今の段落で言うと、フョードルとアデライーダの「遭遇と接近」、そして、次の段落で扱われる二人の「離反と別離」という物語はそれぞれに内在するプロットによって結びつくのだが、亀山のように原文の段落を解消してしまえば、この二つの段落を結びつける「大きなプロット」が存在しなくなる。つまり、読者に「遭遇と接近」と「離反と別離」という二つの段落の結びつきが見えなくなってしまう。これは『カラマーゾフの兄弟』という物語を巨視的に捉える手段がひとつ失われるということだ。
 以上から、作者が分けた段落を亀山のように恣意的に分けるのは間違いだということが分かるだろう。要するに亀山は『カラマーゾフの兄弟』を馬鹿にしているのだ。自分の方がドストエフスキーよりはるかにエライと思っているのだ・・・と、腹を立てていると髪の毛が抜けるので、やめておこう。亀山はドストエフスキーが分からないだけだ。
 【誤訳】「当時まわりから「のらくら」とあだ名されていた男のもとに嫁ぐはめになったか」の「嫁ぐはめになった」。
 【理由】スタヴローギン症候群。アデライーダは自分の意思で結婚したのだから、「嫁ぐはめになった」は変。「嫁ぐはめになる」とは、結婚するつもりはなかったのに、何かの拍子に結婚することになってしまったということ。アデライーダは自分の意思で結婚しただけ。彼女は結婚したあと、「しまった、変な男をつかんでしまった」と気づいただけ。まあ、そう思う女性は多いだろうが、自分の意思で結婚したくせに、「わたし変な男に嫁ぐはめになったのよ」と友人に言いふらすのはやめてほしい(泣くな)。
 【誤訳】「いわゆるロマンチックな気風の残る二世代前」。
 【理由】スタヴローギン症候群。「気風」とは「同じ地域(職業)の人たちが共通に持っていると見られる気質」(『新明解国語辞典』)。わりあい狭い範囲の人々の気質を指す。たとえば、「九州人の気風」とか「早稲田露文の気風」という風に使う。「ロマンチックな気風の残る二世代前」と言うと、漠然としすぎていて、何が何だか分からない。気持がわるい。
 【誤訳】「よりによってどうしてこんなろくでもない、当時まわりから「のらくら」とあだ名されていた男のもとに嫁ぐはめになったか、ここでくどくど説明するのはやめておく」。
 【理由】構造的誤訳と通常の誤訳の合わせ技。まず、構造的誤訳。亀山訳では、「ここでくどくど説明するのはやめておく」と言って、作者は次の段落に移る。だから、読者は当然「これでもう二人がどんな風に結婚したのかという説明はないのね」と思う。ところが、そのあとを読むと、先に「くどくど説明するのはやめておく」と作者が明言した説明が出てくる。こんなことになるのは、もちろん、亀山が変なところで改行したからだ。さらに「ここでくどくど説明するのはやめておく」という訳文が誤訳であるからだ。ここは全否定ではなく、「くどくどとは説明しない」という風に、部分否定として訳さなければならない。原文は部分否定("объяснять слишком не стану")。こう訳して初めて、そのあとの説明と文脈がつながる。まあ、とんでもない誤訳。ここを見るだけでも亀山訳『カラマーゾフの兄弟』がどんな代物か分かるだろう。
 【誤訳】「つつがなく結婚にこぎつけられたはずが」の「つつがなく」。
 【理由】スタヴローギン症候群。「結婚式はつつがなく終わりました」とは言うけれど、「つつがなく結婚にこぎつけた」とは言わない。「つつがなく」とは、ある一定の進行パターン(ルーティン)があって、その進行パターンにそってことが進むこと。結婚式にはそのような進行パターン(新郎新婦入場→来賓挨拶→友人のスピーチ、等々)があるだろうが、結婚にそれはない。もちろん、日本のお見合い結婚の場合、「お見合い→結納→結婚」というようなパターンはある。しかし、この『カラマーゾフの兄弟』の場合のような恋愛結婚に、そのような進行パターンはない。恋愛結婚なんてひとつひとつ違う。亀山が「つつがなく」と訳している箇所、原文では"самым спокойным образом(きわめて平穏に)"なので、そのまま訳せば何の問題もなかった。ちなみに、「つつがない(恙無い)」とは「[ツツガムシの害から免れている意か]病気(異状)が無い。いつもと変わりなく、無事な様子だ(『新明解国語辞典』)。
 【誤訳】「それはもう身勝手というしかない気まぐれが原因で」。
 【理由】スタヴローギン症候群。「気まぐれ」は「身勝手」なものなので、「身勝手というしかない気まぐれ」は「頭に毛がない」と「お坊さん」を結びつけるのと同じように変。
 【誤訳】「娘にすれば、シェークスピアの女主人公オフェーリアにあやかりたい一心で事におよんだのだ」。
 【理由】スタヴローギン症候群。「あやかる」という言葉は、あやかって「幸せになりたい」という場合に使う。この場合、オフェーリアみたいに「不幸になって」自殺したいと思うのだから、「あやかる」は変。「喜助にあやかって、収入を得たいとする者が出たのは当然といえる」(水上勉、「越前竹人形」)。
 また、「事におよんだのだ」も変。その娘は何かエッチなことでもしたのかと思ってしまう。たとえば、「余はその人妻の豊満な肉体に逆上し、ある夜、寝室に忍び込み、ことにおよんだ」(自作)。
 【誤訳】「娘が前からめぼしをつけ、たいそう気に入っていた断崖が」の「めぼし」。
 【理由】スタヴローギン症候群。「めぼし」というのは「大体の見当」のこと。今の場合、この断崖に似た「川岸」しかないと心に決めていたのだから、「めぼし」を使うのは間違い。「どうやら犯人のめぼしがついた」という風に使う。
 【誤訳】「こうした自殺騒ぎなどとうてい起こらなかったはずである」の「自殺騒ぎ」。
 【理由】スタヴローギン症候群。「何とか騒ぎ」というのは、人々を騒がせるような事件のこと。たとえば、「お祭り騒ぎ」といえば、お祭りではないが、お祭りみたいな騒ぎかたをすること。これと同様、「自殺騒ぎ」というのは、自殺未遂に終わり、死にはしなかったが、回りが大騒ぎしたということ。今の場合、自殺してしまったので「自殺騒ぎ」ではない。
 【誤訳】「しかしいまここに述べたことはまぎれもない実話であって、思うに最近二、三世代のロシアでは、こういうたぐいの、あるいはこれに似たような事件が少なからず起こってきた」の「思うに」。
 【理由】原文では次のようになっている。

Факт этот истинный, и надо думать, что в нашей русской жизни, в два или три последние поколения, таких или однородных с ним фактов происходило немало.(試訳:これは本当にあったことなのだ。従って、わがロシアでは、ここ二、三世代にわたって、少なからぬ数の、これと同じような出来事が起きてきたと考えるべきだ)。

 亀山のように"и надо думать, что(従って、・・・と考えるべきだ)"を「思うに」と訳してしまうと、そのあとの「最近二、三世代のロシアでは、こういうたぐいの、あるいはこれに似たような事件が少なからず起こってきた」という文が事実を伝える文になってしまう。これは間違い。原文では、作者の狭い知見によってもこのような自殺があったと分かった。だから、自分の狭い知見からここ二、三世代にわたるロシア全体を推しはかれば、同様の事件が少なからずあったと考えなければならない、と述べているだけだ。
 【誤訳】「囚われとなった思考のいらだち」。
 【理由】これはレールモントフの詩から引用したものだが、これだけではなぜ「 」で囲んであるのかが分からない。注釈を付けるべき。原文に引用符はついていない。原文通りに訳すのなら試訳のようにすべき。また、「囚われとなった思考」は誤訳で、正しくは「囚われた思念」。主体の「囚われた」ある思念のこと(ウシャコフ)。レールモントフの詩では次のような文脈で使われている。参考までに試訳すると、

  信ずるな、若き夢想家よ、信ずるな、
  死病を恐れるように、霊感を恐れよ。
  そのような霊感は病める魂のうわごと、
  あるいは、囚われた思念のけいれん。

 『カラマーゾフの兄弟』のアデライーダにとっての「囚われた思念」とは、むろん、後続の「女性の自立」を目指す「思念」のことである。その思念に囚われた彼女は「けいれん」を起こし、そのあげく、フョードルみたいな男と一緒になってしまったのである。
 ところで、亀山は変なところで改行したので、「囚われとなった思考のいらだち」という言葉が後続の段落と切り離されている。このため、いったいなぜ作者が「囚われとなった思考のいらだち」という言葉を掲げたのかが不明になってしまっている。ここは構造的誤訳。
 【誤訳】「そこで彼女は、たとえ一瞬にせよ、たんに居候の身にすぎないフョードルが、よりよい未来へ向かう過渡の時代に生きるこのうえなく勇敢でシニカルな男性のひとりであるという、おめでたい空想のとりこになった」。
 【理由】森井・NNが指摘済み。NNが指摘しているように、亀山は主文と従属文の関係を把握しないまま訳している。試訳では「ところが、ここで彼女は、たとえ一瞬であったにしろ、つい自分に都合のよい、こんな幻想に囚われてしまったのだ。フョードル・パーヴロヴィチはしがない居候暮らしをしておられる方ではあるけれど、よりよい世界を目指しておられる、もっとも勇敢な、もっともシニカルな人物のお一人なの・・・」。
 【誤訳】「他方フョードルは、自分が置かれている社会的立場からしても、こういううまみのある話には、待ってましたとばかりに飛びつく腹づもりだった」の「うまみのある話」。
 【理由】原文は次のようになっている。

Фёдор же Павлович на все подобные пассажи был даже и по социальному своему положению весьма тогда подготовлен(試訳:フョードル・パーヴロヴィチの方はといえば、自分の社会的立場が立場なだけに、事態がそんな風に運ぶのをもみ手をしながら待ち受けていたのである)。

 フョードルが「うまみのある話」に飛びつこうとしたということではなく、フョードルが予想もしていなかった「椿事(пассажи)」、しかも彼にとってじつに都合の良い椿事が次々に起きたということ。つまり、名門の女性アデライーダが、フョードルみたいな男に簡単に引っかかり、駆け落ちし、結婚までした、という椿事が起こったということ。亀山は"пассажи"を「うまみのある話」、江川は「芸当」、小沼は「抜き打ち行為」、米川は「際どい手段」と訳している。なぜ、そろいもそろってこんな変な訳を付けているのか。"пассаж"はフランス語の"passage"(アーケード、抜け道)から作られたので、フョードルが成り上がるための「抜け道」という風に解釈したのか。しかし、ここの"пассажи"は複数形である。「抜け道」ではない。やはり、ここは「椿事」とか「思わぬ事態の展開」という風に解すべき。「事件」(原)、「突発的な事件」(池田)も可。
 【誤訳】「で、二人の愛情についていえば、花嫁の側にも、またアデライーダの美貌にもかかわらず花婿のほうにも、それらしきものはまったく芽生えなかったらしい。というわけで、ちょいと色目を使われただけでどんな相手でもたちまちべたつく好色きわまりない男で通したフョードルからすれば、アデライーダとのこの出会いは、一生に一度かぎりの事件だったといえるだろう。ついでながら彼女は、性的な面で彼にいっさい感興を呼びおこさなかったただ一人の女性だった。」
 【理由】正確に説明するため、対応する番号を付けて原文と試訳を掲げる。日本語の説明だけでも分かるだろう。

①Что же до обоюдной любви, то её вовсе, кажется, не было -- ни со стороны невесты, ни с его стороны, несмотря даже на красивость Аделаиды Ивановны. ②Так что случай этот был, может быть, единственным в своём роде в жизни Фёдора Павловича, сладострастнейшего человека во всю свою жизнь, в один миг готового прильнуть к какой угодно юбке, только бы та его поманила. ③А между тем одна только эта женщина не произвела в нём со страстной стороны никакого особенного впечатления.(試訳:①しかし、お互いの愛情に関して言えば、アデライーダ・イワーノヴナにも、彼女の美貌にも拘わらず彼にも、それはまったくなかったようだ。②従って、これはフョードル・パーヴロヴィチの人生において、ある意味で最初で最後の出来事であったに違いない。なぜなら、彼はその生涯を通して、自分に手招きをしてくれる人間がスカートをはいているのなら誰でも、待ってましたとばかり、ほいほいむしゃぶりついていったからだ。③じっさい、彼女だけが性的な面で、彼にこれといった特別な印象を与えなかったのである。)

 以上の文章に訳を付けるとき気をつけなければいけないのは、①の"Что же до обоюдной любви(しかし、お互いの愛情に関して言えば)"の"любви(любовьの生格;愛、愛情)"と日本語の「愛」「愛情」という言葉のあいだに大きな意味のズレがあることだ。つまり、日本語の「愛」「愛情」には性的な意味はほとんどないが、ロシア語の"любовь(愛、愛情)"にはその意味があるということに注意しなければならない。たとえば、"Платоническая любовь(プラトン的愛)"と言えば、もとはプラトンが『パイドロス』などで述べている「少年愛」のことだが、そこから転じて、ロシア語では日本語と同様、同性や異性に対する「プラトニック・ラブ」、つまり、肉体的な欲望のない精神的な愛情を意味する。ということは、逆に言えば、"любовь(愛、愛情)"そのものは同性や異性に対する肉体的・性的な愛をも意味しているということだ。
 このことを頭に入れておかないと、先の引用文で、なぜ、フョードルとアデライーダのあいだに「お互いの愛情」がなかったという話から、フョードルにとってアデライーダとの出会いは「最初で最後の出来事」であったという話に移ってゆくのかが分からなくなる。
 要するに、「お互いの愛情に関して言えば、アデライーダ・イワーノヴナにも、彼女の美貌にも拘わらず彼にも、それはまったくなかったようだ」という文章の意味は、フョードルもアデライーダもお互いに対してエッチな気持になることが全然なかった、ということだ。このため、そのあとに、フョードルが女でさえあれば誰とでもやりたがるような男であるという文章が続き、アデライーダはフョードルの人生において「最初で最後の」全然その気にならなかった女性であった、という文章が続くのである。
 亀山が"любовь"を日本語風に理解して訳していることは明らかだ。そのことを示す誤訳を順に挙げてゆこう。
 ◇②の「で、二人の愛情についていえば、花嫁の側にも、またアデライーダの美貌にもかかわらず花婿のほうにも、それらしきものはまったく芽生えなかったらしい」の「まったく芽生えなかったらしい」。
 →「芽生える」のは精神的な愛情であり、性的欲望ではないだろう。性的欲望なら「もよおす」と言わなければならない。また、フョードルが女性とのあいだに「愛情」を育て、二人のあいだに愛情が「芽生える」と言う人間がいれば、「そんなアホな」と言いたくなる。フョードルは女と見れば、あのことしか考えないような人物なのだ。ここはやはり原文通り、「まったくなかったようだ(то её вовсе, кажется, не было)」と訳さなければいけない。
 ◇②の「というわけで、ちょいと色目を使われただけでどんな相手でもたちまちべたつく好色きわまりない男で通したフョードルからすれば、アデライーダとのこの出会いは、一生に一度かぎりの事件だったといえるだろう。」の「というわけで(Так что )」と「事件(случай)」。
 →何が「というわけで」なのかが分からない。これは"случай(場合、出来事)"を「事件」と訳しているからだ。ここで「事件」と言えば、どうしても駆け落ちのことを思い浮かべてしまう。しかし、"случай(場合、出来事)"はそのことを指しているのではなく、助平のフョードルがその生涯において初めて、その気にならない女性に出会ったことを指している。駆け落ちと区別するため、「出来事」と訳すべき。
 ◇③の「ついでながら彼女は、性的な面で彼にいっさい感興を呼びおこさなかったただ一人の女性だった」の「ついでながら」(小沼)。
 →ここは「ついでながら」言う箇所ではなく、フョードルとアデライーダの関係をひと言でズバリと述べている大事なところ。亀山が「ついでながら」と訳している"а между тем"という接続語は、"а на самом деле"(一方、じっさいに)という意味で、フョードルが女と見れば誰とでも寝たがるような男であったということと、そのフョードルがアデライーダにはこれっぽっちも色気を感じなかったということを対比している。つまり、この文はその直前の文(試訳では「従って、これは・・・むしゃぶりついていったからだ」)の補足説明になっている。

 【試訳7】
 彼は二度結婚し、息子が三人いた。長男がドミートリイ・フョードロヴィチで、これは最初の妻の息子、残りの二人、イワンとアレクセイが二番目の妻の息子だった。フョードル・パーヴロヴィチの最初の妻は名門貴族のかなり裕福なミウーソフ家の出で、ミウーソフ家というのも当地の地主であった。しかし、どうしてまた、この持参金もあり、美しく、さらに行動的な才女(この今では珍しくもない女性たちは、とうの昔に登場していたのである)が、そんな「役立たず」と呼ばれていた一文無しの男と結婚することになったのか。これについてはそう詳しく説明するつもりはない。というのも、私はすでに二世代前の「ロマン主義的な」時代を生きたひとりの娘を知っているからだ。その娘は何年間も、ある紳士に謎としか言いようのない思いを寄せたあげく、その紳士といつでも平穏に結婚できたのにも拘わらず、自殺してしまったのだ。つまり、どうしても結婚できない障害を自分で作り上げ、断崖に似た切り立った川岸から、ある嵐の夜、かなり深くて速い流れに身を投じたのである。その娘が自殺したのは、ひとえに自分の思いこみのためで、ただただシェークスピアのオフェーリア姫みたいに死にたいと思ったからにすぎない。彼女の目にとまったそのお気に入りの断崖が、たいして美しくもなく、つまらぬありふれた川岸にすぎなかったら、彼女が自殺することなどまったくあり得なかっただろう。これは本当にあったことなのだ。従って、わがロシアでは、ここ二、三世代にわたって、少なからぬ数の、これと同じような出来事が起きてきたと考えるべきだ。まぎれもなく、アデライーダ・イワーノヴナ・ミウーソワの振る舞いも、これと同類の振る舞いだった。それは外国の流行を真似ただけなのであり、その流行に押し流され血迷った結果なのである。おそらく彼女は、女性の自立を宣言したかったのだろう。女性の置かれた社会的条件に否を突きつけ、封建的な自分の一族郎党に反抗したかったのだろう。ところが、ここで彼女は、たとえ一瞬であったにしろ、つい自分に都合のよい、こんな幻想に囚われてしまったのだ。フョードル・パーヴロヴィチはしがない居候暮らしをしておられる方ではあるけれど、よりよい世界を目指しておられる、もっとも勇敢な、もっともシニカルな人物のお一人なの・・・。ところが、そのフョードルさまは根性の腐った道化にすぎず、それ以外の何者でもなかった、というわけだ。さらに刺激的なことに、花嫁の略奪という形でことが運び、このことがアデライーダ・イワーノヴナをとても感激させた。フョードル・パーヴロヴィチの方はといえば、自分の社会的立場が立場なだけに、事態がそんな風に運ぶのをもみ手をしながら待ち受けていたのである。どんな手を使ってもいい、とにかく上に這い上がりたいと熱望していたのだ。彼にとって、まんまと名門一族の一員になり、持参金をせしめるというのは、たまらないことだった。しかし、お互いの愛情に関して言えば、アデライーダ・イワーノヴナにも、彼女の美貌にも拘わらず彼にも、それはまったくなかったようだ。従って、これはフョードル・パーヴロヴィチの人生において、ある意味で最初で最後の出来事であったに違いない。なぜなら、彼はその生涯を通して、自分に手招きをしてくれる人間がスカートをはいているのなら誰でも、待ってましたとばかり、ほいほいむしゃぶりついていったからだ。じっさい、彼女だけが性的な面で、彼にこれといった特別な印象を与えなかったのである。

 【亀山訳7】
 彼は二度結婚し、三人の子どもをもうけた。長男のドミートリーは最初の妻とのあいだに生まれた子どもで、残りの二人、すなわちイワンとアレクセイは二度目の妻とのあいだに生まれた。フョードルの最初の妻は、かなりの資産家でこの土地の地主でもあった名門貴族ミウーソフ家の出身だった。持参金つきの上に器量よし、おまけに利発な才女であるお嬢さんが(今の世代ではめずらしくないが、その昔にもすでに姿を現していた)、よりによってどうしてこんなろくでもない、当時まわりから「のらくら」とあだ名されていた男のもとに嫁ぐはめになったか、ここでくどくど説明するのはやめておく。
 いわゆるロマンチックな気風の残る二世代前のことだが、わたしが知っていたある娘などは、何年ものあいだ、とある紳士に謎のような恋心をよせ、その気になればつつがなく結婚にこぎつけられたはずが、けっして越えられない壁があるように思いこみ、ある嵐の夜、断崖のように切り立った川岸からかなり深い急流に身を躍らせ、命を絶ってしまった。
 それはもう身勝手というしかない気まぐれが原因で、娘にすれば、シェークスピアの女主人公オフェーリアにあやかりたい一心で事におよんだのだ。しかも、娘が前からめぼしをつけ、たいそう気に入っていた断崖が、かりに絶景と呼べるようなものではなくもっと散文的でのっぺりした岸であったなら、こうした自殺騒ぎなどとうてい起こらなかったはずである。
 しかしいまここに述べたことはまぎれもない実話であって、思うに最近二、三世代のロシアでは、こういうたぐいの、あるいはこれに似たような事件が少なからず起こってきた。同じように、フョードルの妻アデライーダがとった行動は、あきらかに他人の思想の受けうりであり、これまた「囚われとなった思考のいらだち」の結果だった。
 彼女にしてみれば、たぶん女性の自立を宣言し、社会的な制約や、親戚、家族の横暴に反旗をひるがえしたかったのだろう。そこで彼女は、たとえ一瞬にせよ、たんに居候の身にすぎないフョードルが、よりよい未来へ向かう過渡の時代に生きるこのうえなく勇敢でシニカルな男性のひとりであるという、おめでたい空想のとりこになった(そのじつ、彼は腹黒い道化でしかなかったが)。おまけに、事が駆け落ちで落着するという点も刺激的で、それがいたくアデライーダの興をそそったらしい。
 他方フョードルは、自分が置かれている社会的立場からしても、こういううまみのある話には、待ってましたとばかりに飛びつく腹づもりだった。なぜなら彼は、たとえどんな手を使ってでも、出世がしたくてうずうずしていたからである。名門の貴族と縁をむすび、持参金をせしめるというのは、なんとも誘惑的な話だった。
 で、二人の愛情についていえば、花嫁の側にも、またアデライーダの美貌にもかかわらず花婿のほうにも、それらしきものはまったく芽生えなかったらしい。というわけで、ちょいと色目を使われただけでどんな相手でもたちまちべたつく好色きわまりない男で通したフョードルからすれば、アデライーダとのこの出会いは、一生に一度かぎりの事件だったといえるだろう。ついでながら彼女は、性的な面で彼にいっさい感興を呼びおこさなかったただ一人の女性だった。