にも拘わらず

 にも拘わらず、私は小林秀雄を尊敬している。これは小林が翼賛的な体質を持っていることとは無関係だ。大岡昇平は日米開戦時の小林の翼賛的な発言などに幻滅し、自分の先生である小林から離れていった。そして、小林に代表されるような日本のインテリに絶望しながら戦争に行った。しかし、私は小林の翼賛的な発言にも拘わらず、彼を尊敬している。それは、木田元と同様、私も未成年の頃から、小林秀雄から「何もかも」教わってきたからだ。文字通り「何もかも」教わったのだ。ドストエフスキーも、ゴッホも、中也も、モーツアルトも、バッハも、本居宣長も。小林がいなければ、今の私はない。
 私の師、ドイツ文学者の小川正巳は私にキリスト教を教えてくれたし、もうひとりの師、フランス文学者の小島輝正は私に酒と小説と女を教えてくれた。さらに、もうひとりの師、詩人の多田智満子は無欲であることを教えてくれた。他にも私にさまざまなことを教えてくれた人がいた。しかし、小林秀雄ほど「何もかも」教えてはくれなかった。私は小林に会ったわけではないのに、私が会った人以上に何もかも教えてくれた。
 会ったわけではないのに私が自分の師と仰ぐ人物に森有正がいる。私はおそらく、小林より森有正をはるかに尊敬している。年を取るにつれて、ますますそう思うようになっている。昔、京都北白川のプロテスタント教会のクリスマス会で、私はバリオスを弾いたことがある。のちに、その教会で森が説教をしたことがあると知ったとき、私は不思議な気持に打たれた。なぜなら、森は三十年くらい前、私の命を救ってくれたからだ。