殺意

 わたしには二十代のときに一人、三十代のときに一人、と、いう具合に、会ったら殺してやろうと思っている人間が二人いた。彼らはそれほどわたしにひどいことをした。彼らは二人とも、わたしを見ると、顔色を変えて、逃げて行った。不愉快なので、わたしは彼らと会うかもしれない日本ロシア文学会を辞めた。彼らは二人ともわたしの同業者であった。
 しかし、わたしもその自分のそのやり場のない殺意に苦しめられていた。その殺意が消えていったのは、「ありのままに生きる――引きこもりとドストエフスキー」(『現代思想』、第49巻、14号、令和3年、11月)で書いたような出来事があったからだ。わたしはドストエフスキー研究をほうりだして、十五年ほど、引きこもりの人や精神障害者身体障害者の話を聞き続けた。今となっては、なぜ自分がそんなことをしたのかが分かる。わたしは自分の中で燃えさかる殺意を消したかったのだ。その消し方をわたしは彼らと話しながら学んでいった。と言っても、あまりにも抽象的だ。詳しいことはその文章を読んでほしい。しかし、結論だけを言うと、わたしは殺意の消し方を、彼らと話しながら、同時に、ドストエフスキーから、そしてバフチンベルクソンから学んだのだ。それ以来、わたしは殺意に苦しめられることはなくなった。
 と、思っているが、自信はない。なぜなら、十年に一度ほど、自分でも忘れていた怒りにわれを忘れることがあるからだ。そんなとき、わたしは自分がまったく変わっていないと思い、赤面する。もう赤面することがないよう、「ありのままに生きる――引きこもりとドストエフスキー」で書いたことをあと少し正確に、自分に向けて書こうと思っている。