和文和訳

 昔、翻訳というものはしょせん、どう転んでもニセモノである、ということを森有正が言っていたので、わたしはあまりにもひどい翻訳は別として、だいたいどんな翻訳でも許容することにしている。
 それでも、先行訳の誤訳をそのまま写している、言うなら「和文和訳」のような翻訳に出会うと、眩暈を覚える。世の中に、そういう例は無数にあるようだ。即刻やめてほしい。例をひとつ挙げておく。
 わたしは以前、木村浩訳の『白痴』(全二巻、新潮文庫、平成16年改版以降)に出没する誤訳・珍訳が河出文庫の望月哲男訳ではすべて直っていると思ったので、望月訳を絶賛したことがある。しかし、それは木村訳に頻出する誤訳・珍訳に呆れ、それが望月訳ではすべて直っているので感心し、そう言っただけなのである。わたしは望月訳そのものを読んで、そう言ったわけではない。今では、軽薄なことを言ったと反省している。というのも、最近、必要があって、望月訳を読んでいたところ、信じられないような誤訳に出会ったからだ。それが、次の箇所である。(『白痴』を読んだことのない人には分からないだろうが、それにはかまわず説明を続ける。以下のわたしの説明の意味を知りたい人は『白痴』を読んでほしい。)

 望月訳:「ナスターシャ・フィリッポヴナは不意になにかいかにもかわいらしくて品のいい無知をさらけ出すこともあった。一例を挙げれば、百姓女は彼女が着ているようなバチスト(精麻布)の下着を着ることができないということを彼女は知らなかったが、トーツキイはそんなところがとりわけお気に入りのようだった。」(『白痴1』、河出文庫、2010、p.290)

 これは英語でいう仮定法過去の文章を読み間違えて訳したもので、内容的にも逆の意味になる。「百姓女は彼女が着ているようなバチスト(精麻布)の下着を着ることができないということを彼女(=ナスターシャ)は知らなかった」のではない。彼女は知っていた。ナスターシャはトーツキイによって「上品に優雅に」育てられたのにもかかわらず、民衆のことには通暁していたということが、彼女の振る舞いから分かるように作者は描いている。
 ここがこの文章の肝心要のところで、また、これがナスターシャの偉大なところなのである。彼女のこの偉大さが分からないとすれば、そのような人はドストエフスキーの土壌主義も『白痴』もまったく理解できないことになる。ドストエフスキーの土壌主義についてはわたしの『ドストエフスキーのエレベーター』(p.111)を読んで頂きたい。
 一方、誤訳・珍訳のデパートであるのにもかかわらず、ここを木村浩米川正夫訳と小沼文彦訳と同様、正確に訳している。

 木村浩訳:「実際、もしナスターシャ・フィリポヴナが、ふいになにかしら無邪気で上品な無知、たとえば、百姓女は自分の着ているようなバチスト(精麻布)の肌着をつけてはいけない、といったふうの無知を言ったとしたら、そのときはトーツキイも大いに満足したにちがいない。」(『白痴(上)』、p.310)

 で、問題は、亀山郁夫が望月訳が出た五年後、次のように望月訳を「和文和訳」していることだ。

 亀山郁夫訳:「ナスターシャはじっさい、たとえて言うなら、どことなく愛らしく品のいい無知をさらけ出すことがあった。たとえば、百姓女は自分が身にまとうようなバチスト織りの下着を着けることができないことを知らなかったのだが、トーツキーはどうも、彼女のそういった点がいたく気に入っていたようである。」(『白痴1』、光文社古典新訳文庫、2015、p.339)

 亀山が仮定法過去を知らないはずはないだろう。亀山は原文を読んだのか?それとも、望月訳をそのまま写したのか。