頭が良いということ

頭の良い人と悪い人がいるらしい。わたしにはこれが分からない。理屈の立つ人が頭が良いということにはならない。たとえば、ある解決困難な事象Aに対してBとCという二つの相反する結論があるとしよう。例としては、日本国憲法9条(A)に対する賛成(B)と反対(C)のような事例が挙げられる。A→Bという人もいれば、A→Cという人もいるということだ。A→B、A→Cのいずれの説を唱えるにしても、頭が良いと言われる人はそれを順序立ててきちんと説明できたように説明する。この「説明できたように説明する」というところが頭が良いと言われる人の頭が良いと言われるゆえんで、頭が悪いと言われる人にそういう芸当はできない。頭が悪いと常々言われている人は、いきなり、「A→Bだ!」とか「A→Cだ!」とかいうだけだ。だから、頭が悪いと言われるのである。しかし、頭が良かろうが悪かろうが、ある人がA→B、A→Cのいずれかの説を採用するということは、その人自身があらかじめ決めているのではないのか。決めさせるのは、その人の過去負荷性あるいは経験だ。わたしたちは自分の過去の経験を説明することができない。なぜなら、それは自分というものを形作ってきたものであるからだ。自分で自分を説明することなど誰にもできない。だから、本当は、なぜ自分がA→B、A→Cのいずれかの説を採用したのかは説明できないのである。だから、A→B、A→Cのいずれかの説を採用するにしても、そこでは頭の良し悪しは消滅する。あるのは、「A→Bだ!」とか「A→Cだ!」とか、あるいは、「申し訳ないけど、A→BかA→Cかは分からない」ということだけだ。