笑い声 

 私が大学を定年で退職したある年の3月31日の午後5時過ぎのこと。研究室の整理も終え、やれやれと思いながら、自転車をゆっくりこいで帰ろうとしていたときのこと。
 あと10メートルぐらいで校門というところで、自転車の前を横切ろうとした人を避けようとハンドルを切った。そして、後ろから猛スピードで走ってきた自転車に追突された。追突したのは学生で、校門の先にある横断歩道の信号が赤に変わりそうだったので猛スピードで走ってきたらしい。
 私は何メートルか学生の自転車に引きずられ、転倒し、結局、右足の梅干しを砕き、入院した。今もそこにチタンという金属が入っている。すでに直ったので、そのチタンを取り除いてもいいのだが、取り除くためにはまた入院しなければならない。入院は何でもないが、手術のとき、また抗生物質を大量に身体に入れるのがいやで、チタンは入ったままだ。
 梅干し手術のとき、抗生物質を大量に投与され、それから二ヶ月ほど気分が悪かった。高校のころかなりの大手術をしたことはあるが、こういうことはなかった。年を取ると、ちょっとした手術でも命にかかわるということがよく分かった。私は手術のあと、恩師のひとりがある雪の日、羽田空港で転び、足を折り、その手術のために亡くなったことを思い出した。その恩師は、モスクワ大学から来たソ連の交換教授を迎えに行き、雪で足をすべらせ転んだのだ。
 梅干しの手術のあと、右の足首がなんだか曲がりにくいので、リハビリのためにプールに通いはじめた。若い頃は1キロほど泳いでも平気だったのに、いざ泳いでみると、200メートル泳ぐだけで息が切れた。それで、この野郎、という気持で1キロほど泳ぐと、おぼれて死にそうになったので、300メートルぐらいでやめることにした。年寄りの冷や水とはよく言ったものだ。
 先日のこと、プールから出て風呂場に入ろうとすると、中から、ひとりの老人がプールのスタッフに抱きかかえられて出てきた。それは作田啓一氏によく似た上品な風貌の老人だった。80は過ぎているだろうか。その老人はプールの中で歩いているだけだった。風呂で卒倒したということだ。
 ああならないよう私も気をつけなければいけないな、などと思いながら、風呂場に入り、身体を洗い、風呂で温まり、サウナで汗を流し、風呂場から出た。そして、着替えをすますと、ロビーに出た。
 ロビーのソファでひとりの若い男が大きな声で携帯電話をかけていた。
 私はひと休みしようとソファに座って、ペットボトルの水を口に含んだ。
 他人の携帯電話の会話を聞くのは苦痛だが、我慢はできる。しかし、その男はひとこと話すたびに笑った。笑い声だって我慢はできる。
 しかし、その笑い声を聞いて、私は急いでその場を離れた。
 心の中の空虚がそのまま出ている笑い声だった。
 私は市ヶ谷で自殺する前の三島由紀夫の笑い声を思い出した。自分の中になにもない、がらんどうの心をかかえた男が笑う。そういう笑い声だ。誰もがその笑い声に眉をひそめる。
 私も若い頃、そんな笑い方をしていた。あるとき、そのことに気づき、声をたてて笑うのをやめた。それ以来、声を立てて笑ったことがない。