トリクルダウン

 アベノミクスの経済政策として有名になった「トリクルダウン」については、すでにドストエフスキーがそのポリフォニー小説に登場する人物の口を借りて、激しく批判させている。
 『罪と罰』で、ラスコーリニコフの妹と結婚しようとしていたルージンは、こういう。
「・・・たとえば今日まで私は、「汝の隣人を愛せよ」と言われて、そのとおり愛してきました。だが、その結果はどうだったでしょう?」とルージンは言葉をつづけた。(中略)「その結果は、自分の上着を半分引きさいて、隣人と分けあい、ふたりがふたりとも半分裸になってしまった。ロシアの諺にいう「二兎を追うものは一兎をも得ず」というやつです。ところが科学はこう言う。まず何よりも先におのれひとりを愛せよ、なんとなればこの世のすべては個人の利害にもとづくものなればなり、だからです。おのれひとりを愛していれば、自分の仕事もうまくいくし、上着も無事に残ることになる。経済学の真理はさらにこうつけ加えます。安定した個人的事業が、つまり完全な上着ですな、それが社会に多くなればなるほど、その社会はより強固な基礎をもつことになり、社会の事業もうまくいくとね。つまり、もっぱらおのれひとりのために利益を得ながら、私はほかでもないそのことによって、万人のためにも利益を得、隣人にだって破れた上着よりは多少ましなものをやれるようになるわけですよ。それも自分の私的な、個人的な施しものとしてではなく全体の進歩の結果としてなんです。実に単純な思想なんだが、不幸なことに、この思想が感激癖と空想癖にかくされて、あまりにも長いことわれわれを訪れなかったのですな。この程度のことに気づくには、たいした機知もいりそうもありませんがな。」(『罪と罰(上)』、岩波文庫江川卓訳、2003、7刷、pp.304-305)
 ルージンのこの考えを要約すると、次のようになる。私たちは自分の利益を追求しているだけでいい。他人にその利益を分け与える必要はない。なぜなら、自分が富むことによって、その豊かになったおこぼれが、貧しい人々へとこぼれ落ちて行くからだ。この自分の富が貧しい人々に「こぼれ落ちる」という経済思想がアベノミクスの中心思想だ。なぜなら、「トリクルダウン(trickle-down)」という英語は、まさにこの富者の富が貧者に「こぼれ落ちる」ということを意味するからだ。
 しかし、これを聞いたラズミーヒンは、このような経済思想に激しい怒りを向ける。嘘ばかり言うな、そんなことを言うやつは、自分が金持になりたいだけだ。そいつらは儲けた金をひとりじめするだけだ。貧乏人に金を分けたりしない。おれはそんな例をうんざりするほど見ている。
 さらに、やはりルージンの演説を聴いていたラスコーリニコフは、そんなきれいごとを言うやつは、自分さえよけりゃいいと思っているやつだ。そのためには人を切り殺してもかまわないと思っていやがる。と、私欲でやった自分の強盗殺人のことについては選択的健忘症におちいり、憤然と言い返す。
 これはもちろんドストエフスキーポリフォニー小説、つまり、さまざまな価値観をもつ人々が真剣に、あるいは楽しく対話する小説なので、ルージンとラズミーヒンたちのどちらが正しいということは言えない。というより、ポリフォニー小説には、議論の余地なく正しい思想など存在し得ない。読者がアベノミクスの推進者なら、ルージンに肩入れするだろう。アベノミクスに反対する読者なら、ラズミーヒンとラスコーリニコフに共感するだろう。どっちもどっちだと思う私のように優柔不断な人間は、どちらの意見も極論だと思うだけだ。こっそり私の意見を言うと、人間というものは不完全な存在なのだ。だから、対話が必要なのだ。
 ところで、最近、トリクルダウンという考えを推進する新自由主義者を、バチカンのフランシスコ・ローマ教皇が激しく批判した。彼もラズミーヒンやラスコーリニコフと同じようなことを言う。
 「自分の富を貧しい人と共有しないことは、彼らから盗み彼らの生計を奪うことである。我々が持つ物は自分の物ではなく、彼らの物である。」(下記のホームページからの引用です。感謝します。))
 教皇新自由主義者との対話を開始したことを私は歓迎する。優柔不断な私の意見にすぎないが、世界はこんな風に、いつも真剣な対話に満ちていなければならない。対話が途絶えるとき、暴力がふるわれ、戦争が始まる。
http://ameblo.jp/study-houkoku/entry-11717004270.html