お笑いドストエフスキー講座

 人間には二種類あって、ひとつは、人を笑わせるのが上手な人で、これは少ない。この種類の人間は稀少かつ貴重な存在と言ってもいいだろう。なぜ、稀少かつ貴重なのか。それは、人を笑わせるためには、さまざまな「共通感覚(常識)」を察知する鋭敏な神経を備えていなければならないからだ。
 共通感覚というのは、「「謎とき」シリーズがダメな理由(4)」などでくり返し述べてきたように、ある集団が共有する感覚のことだ。その共通感覚には、大はある民族がもつ共通感覚から、小は家族だけがもつ共通感覚まである。思い着くままその例をあげると、男性と女性の共通感覚は異なるし、日本人の女性と米国人の女性のそれも異なる。また同じ日本人男性でも、大阪と東京の共通感覚は異なるし、時代によってそれは異なる。要するに、私たちの生きている世界には、無数の共通感覚の網がかぶせられているのだ。その網は重なることもあるし重ならないこともある。そして、笑いとは、ベルクソン風に説明すれば、このさまざまな共通感覚の網の中で硬直している精神をもみほぐし、その硬直から解放することなのである。
 この共通感覚に凝り固まった精神に働きかけ、それをもみほぐし解放することほどむつかしいことはない。それはマッサージと同じで、人によって、どの程度もみほぐせば快感になるのかが分からない。だから、マッサージ師と同じように、人を笑わせようとすれば、その人を注意深く観察しながら、繊細かつ大胆に手加減しなければならない。そうでないと、「痛い!」とか「馬鹿にするな!」と怒り出す人が出てくる。うまく人を笑わせることが出来る人には持って生まれた才能があるのだと言うしかない。私にそういう才能はない。だから、私は人に笑われる人間になるしかない。
 この二番目の種類の人間になるのはかんたんだ。存在するだけでいい。少し反省するだけで、私たちがいかに多くの共通感覚に囚われているのかが明らかになるだろう。要するに、私たちの存在そのものが笑いの宝庫なのだ。
 ドストエフスキーポリフォニー小説は、私たちの存在そのものが笑いの宝庫であることを明らかにする。だから、ドストエフスキーを読む公開講座は笑いにつつまれたものになるだろう。そう思っていつも話をしているのだが、じっさいはそういうことにはならず、講師である私自身が笑われることになる。