断罪

 韓国で修学旅行生を乗せたフェリーが沈没し、多数の人命が失われた。今現在、韓国ではマスコミやそのマスコミにあおられた人々が、その事故の犯人捜しにやっきになっている。修学旅行生より先に逃げ出した船長がわるいとか、そういう沈没するようなフェリー会社の違法行為を防げなかった政府がわるい、というような非難が今韓国国内で渦巻いている。
 こういう悲しい出来事に出会うたび、私たちはいつも同じようにふるまう。それがまた悲しい。
 福島の原発事故のときもそうだったし、現在の北朝鮮の収容所やかつてのソ連の収容所での非人間的な行為を知ったときもそうだった。原発を日本のような軟弱な地盤の上に作るのが悪い、マルクス主義というのは神をも恐れぬ人間中心主義だ、だから、あんなひどいことが平気で出来るのだ、とか。また、先のアメリカとの戦争で無残な敗北を喫したときもそうだった。はじめから負けるのが分かっているのに戦争などするからだ、とか、日露戦争に勝って調子に乗りすぎたのだ、とか。
 いつもいつも私たちは、悲しい出来事を惹き起こした人々を断罪する。あたかも自分がその悲しい出来事を予見できていたかのように断罪する。
 もちろん、それはそんな取り返しのつかない出来事が起きてしまったことが悔しいから、その出来事を惹き起こした人々を断罪するのである。
 しかし、このような断罪は間違っている。いや、悲しむのが間違っているというのではない。その出来事で自分の子供が殺された人々が悲しむのを間違っているというわけではない。また、彼らがその出来事を惹き起こした人々に怒りをぶつけるのが間違っているというのでもない。
 それが間違っているというのではなく、その出来事の被害者に同調して、その過去の、あるいは他国の出来事を惹き起こした人々を断罪するのが間違っているというのだ。自分はとくにその出来事によって直接被害を受けたわけでもないのに断罪するのが間違っているというのだ。
 もちろん、その出来事の被害者の悲しみに同調、あるいは共感して、その出来事を惹き起こした人々を断罪するのがまったく間違っているというのではない。それは自然な感情だろう。今回の韓国のフェリー事件でも、あんなひどい事故を起こした責任者たちを、誰だって責めるだろう。また、誰だって、先のアメリカとの負けると分かっていた戦争を止められなかった人々を責めるだろう。
 私が言いたいのはそういうことではない。私が間違いだというのは、「自分ならああいう愚かなことはしないだろう」という、その悲しい出来事を惹き起こした人々に対する優越感のことなのである。そんな優越感をもつのは間違っている。その優越感をもたらすのは、私のいう「自尊心の病」だ。このような自尊心の病こそ、その悲しい出来事の原因を探るのをさまたげ、また同じような悲しい出来事を私たちにもたらすだろう。「自分ならああいう愚かなことはしないだろう」という優越感にひたっている人々にとっては自分の自尊心だけが大事なのだ。その悲しい出来事が繰り返されないようにするためには具体的にどうすればよいのかというようなことは二の次なのである。
 大事なことは、自分の自尊心を満たすことより、その悲しい出来事がどうすれば防げるのかということだ。しかし、その大事なことが私たちには分からない。それは私たちの誰もが自尊心の病に憑かれているからだ。
 たとえば、歴史的な経緯はあるにせよ、先のアメリカとの負けると分かっていた戦争を引き起こした原因のひとつが日本人の国民性であることは明らかだろう。丸山真男のいう「たこつぼ」が陸軍と海軍の対立を招き、戦争を誘発し、山本七平のいう「空気」が国民を戦争に駆り立てた。このような国民性は今も変わらない。まったく変わっていない。これは私たちが先のアメリカとの戦争を、自分ならあんな愚かな戦争などしないと思っているからだ。だから、本気になって、日本人の国民性を変えようとしないのだ。国民性を変えるとはどういうことか。それは私たちひとりひとりが日本人のその「たこつぼ」と「空気」に抵抗しながら生きるということだ。日本人なら誰にも分かるように、そんなことをしている人は右派にも左派にも中道にもいない。いても「たこつぼ」と「空気」に潰されるだけだ。
 繰り返すが、こんなことになっているのは、私たちに大事なのは私たちの自尊心だけだからだ。自分の自尊心さえ満たされれば、あとはどうなろうと、たとえ日本あるいは世界が滅亡しようとかまわないのだ。今も私たちはそのアメリカとの戦争を引き起こした日本人の国民性を何とかしようと思わず、先の戦争を引き起こした人々を愚かだと思い、自分ならそういう愚かなことはしないと思っているのだ。だから、今のままでは、近い将来、私たちは同じような戦争をかならず惹き起こすだろう。そして、今度こそ滅亡するかもしれない。だから、私たちが本当に平和を求めるのなら、今しなければならないのは、自分の自尊心の病に気づくことなのである。