武満徹

 私は武満徹の音楽を心から愛するが、それは武満が真実を愛する人間であるからだ。真実を愛する人間の振る舞いは、それが錯誤に満ちたものであるときも美しい。彼らの嫉妬は美しいし、その怒りも美しい。そして、真実を愛する人間が芸術家であるとすれば、その作品はすべて、失敗作と非難される作品も含めて(彼らに失敗作などないのだが)美しい。従って、武満の音楽はすべて美しい。
 それとは逆の場合、真実を愛さない人間が愛と正義について語るとき、それは醜い。彼らの作品も醜い。それは私を逆上させる。現在私たちのまわりにはそのような人々と作品があふれている。これは昔からそうだった。たとえばボンヘッファーは次のようにいう。

「悪い行為」よりもなお悪いのは、「悪い存在」である。すなわち、真実を愛する人が嘘をつくことより、嘘つきが真実を語ることのほうが、もっと悪い。人間を愛する人が一時的に憎しみに捕えられることより、人間に憎しみばかりをいだく者の兄弟愛の行為のほうが、もっと悪い。逆にいえば、嘘つきの口から出る真実よりも、嘘のほうがましである。人間に敵対する者が兄弟愛を行うことよりも、憎しみのほうがましである。「悪い行為」による罪と、「悪い存在」そのものの罪は同じではない。それらは同じ比重を持つのではない。より重い罪と、より軽い罪が存在する。倫理的な「転落」よりも、神への「背反」のほうが、無限に重い比重を持っている。真実な者の弱さによる最大の暗さよりも、背反した者のもつ最大の輝きのほうが、さらに深い闇夜なのである。(『主のよき力に守られて――ボンヘッファー1日1章』、村椿嘉信訳、新教出版社、1986、pp.344-345)