冨原眞弓様に

 次の手紙は岩波書店の文庫係気付で冨原眞弓氏に送った手紙だ。しかし、二ヶ月近く経つのにナシのつぶてだ。手紙が冨原氏に渡っていないのか。それとも冨原氏が目下調査中なのか。いずれにせよ、このままだと私自身送ったことを忘れそうなので、忘れないうちにここに記しておこう。ヴェイユの『根をもつこと』はドストエフスキーの土壌主義を説明するとき、これまで講義でしばしば使ってきたのだが、このようなドストエフスキーに無知な注釈はドストエフスキーに対して要らぬ誤解を受講生に与えるので、放っておくわけにはいかない、そう思って、このたび冨原氏に手紙を書いたのである。

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 冨原眞弓様、
 はじめてお便りを差し上げます。
 シモーヌ・ヴェイユをめぐるお仕事、いつも敬意をこめて読ませて頂いております。
 ドストエフスキー研究者として少し気になった点がありますので、ご参考までに述べさせて頂きます。
 貴訳『根をもつこと』(岩波文庫、下巻)の244頁、注の(131)についてです。
 理由を述べますとドストエフスキー論になり長くなりますので、結論だけ言いますと、「キリストが真理でないとしても、わたしはキリストとともにあって真理の埒外にある方がよい」とドストエフスキーが言ったのは、「合理的な真理」(無神論的合理主義における「真理」)の外にキリストがいるとしても、自分はキリストを信じる、ということです。これはキリスト者であるモチューリスキーなども述べていることです(モチューリスキー、『評伝ドストエフスキー』、筑摩書房、2000、pp.162-164)。わたしもそれが正しい読み方だと思います。大学の講義でもこれまでそのように述べてきました。
 これは推測にすぎませんが、ヴェイユは1924年から1941年までソルボンヌのロシア学部の教授をつとめていたモチューリスキーの講義を聴講したか、誰かからその講義ノートを見せてもらったか、誰かからその講義の内容を聞いたのではないのでしょうか。このため、ドストエフスキーの「キリストが真理でないとしても」という言葉を冒涜だと思ったのではないのでしょうか。と言いますのも、モチューリスキーはヴェイユの死後、自分の講義をもとにして1947年にパリで出版した上記のドストエフスキー伝で、ドストエフスキーのその言葉はキリスト者にとって冒涜になると述べているからです。ただし、モチューリスキーはドストエフスキーが述べた「真理」という言葉を文字通りの意味で受け取れば冒涜になるという意味で述べているのにすぎません。繰り返しになりますが、モチューリスキーも述べていますように、ドストエフスキーは、「真理」という言葉でベリンスキーの無神論的合理主義を指しながら批判し、キリストを擁護しているのですから、「キリストが真理でないとしても」という言葉はベリンスキーのような無神論者を批判していることになっても、キリストへの冒涜にはなりません。
 ところで、ドストエフスキーの「キリストが真理でないとしても」以下の言葉は、1854年2月下旬、N.D.フォンヴィージナ宛の、ドストエフスキーがオムスク中継監獄から出した手紙の中で述べられたものです。モチューリスキーもその手紙のことを述べています。貴訳注にある『悪霊』の中のシャートフの言葉はその18年後に述べられた反復にすぎません。従って、訳注としては、N.D.フォンヴィージナ宛の手紙の言葉として紹介しながらヴェイユの誤解に言及すべきであると思います。ヴェイユは『カイエ』では『カラマーゾフの兄弟』について的確な判断を下しているので、『根をもつこと』における彼女のその誤解はモチューリスキーのドストエフスキー論を不正確に理解した結果にすぎないと思います。
 従って、貴訳注の「この背後には1881年の農奴解放令以降のロシアにおける価値観の崩壊がある」という言葉も間違いです。ロシアにおける農奴解放は1881年ではなく、1861年ですが、ドストエフスキーのその言葉は1861年以前に述べられているからです。また、そのシャートフの言葉をドストエフスキーがスタヴローギンの人となりを表すために使ったとすれば、私見によれば、それはスタヴローギンが徹底的な「根無し草」であることを表現するためであったにすぎないと思われるからです。すなわち、かつてはシャートフに向かってキリスト教信仰をもっているかのように振る舞いながら、今ではまったくの無神論者であることを恥じてはいない、それもわざと12歳の少女を誘惑し交わり、雑巾のように捨て、自死に至らしめるような存在になり果てている自分を恥じてはいないスタヴローギン像を示すために、シャートフに「キリストが真理でないとしても」以下の言葉を言わせているのではないのか、というのがわたしの意見です。
 以上、ご参考になれば幸いです。これからも良いお仕事をされるよう願っています。

 萩原俊治(大阪府立大学・人間社会学部)