「君が代」と「川の流れのように」 

 私は昔「川の流れのように」を初めて聞いたとき、なんていやな歌だと思った。もともと美空ひばりのあの悲鳴のような声がきらいだったこともあるが、何よりも秋元康の書いた歌詞が不快だった。特に最後の、

ああ 川の流れのように おだやかに
この身を まかせていたい
ああ 川の流れのように いつまでも
青いせせらぎを 聞きながら

というところが不快だった。
 なぜ不快だったのかといえば、これが丸山真男のいう日本的「たこつぼ」を肯定している歌であるように私には思えたからだ。つまり「空気」賛歌。いろいろ不合理なことは世の中にはあるけれど、そういうことには目をつぶって、「空気」を読みながら、うまく立ち回りましょう、角を立てないよう、みんなと仲良く生きましょうね、という風に聞こえたのである。「余計なお世話だ」と私は思った。
 ところが最近になり、ギター仲間の一人がこの「川の流れように」(福田進一編曲)を弾くようになった。そのサラリーマン稼業で苦労してきた友人が弾いている「川の流れのように」を聞いていると、悲哀のこもった、けっこう味のある歌かな、という風に思うようになった。サラリーマンとして「空気」を読みながら生きていくしかない自分のふがいなさ、情けなさを歌い上げる恨み節という風に聞こえるようになってきたのだ。
 ということになれば、これは「君が代」と同じだ。戦争責任を取らないまま居座った天皇を讃える「君が代」と同じだ。「君が代」も私にとっては恨み節だ。親父がそんな風に歌っていた。「君が代」を歌えと誰かに強制されたら、恨みをこめて歌おう。その歌い方は良くないと誰かが言えば、「余計なお世話だ」と言おう。