音楽脳、文学脳、会議脳?

 このブログは亀山郁夫ドストエフスキー論を批判するために始めたのだが、2月の初旬以来、まったく更新できていない。こんなことになっているのは、大学では2月3月が様々な校務のため忙しいということもあるが、今年私が教育運営委員長をしているからだ。次から次に会議があり、それに律儀に付き合っていると、あっというまに「会議脳」の持ち主になってしまう。そして、会議以外のことは考えられなくなってしまう。慣性の法則というか、動き出したら止まらないというか、いずれにせよ、私にとっては恐ろしい事態だ。3月で教育運営委員長の職から解放されるので、早く「文学脳」を取り戻したい。
 これは会議脳だが、私の知っている脳のひとつに「音楽脳」がある。私の偏見によれば、音楽をやっている連中はだいたい飛躍の多い、もうひとつまとまりのない、ぐちゃぐちゃというか、しまりがないというか、何とも説明のしようがない奇妙な話し方をする。ルネサンス音楽の合奏などを一緒にする私の音楽仲間などはそうだ。と言っても、それは彼女たちが馬鹿だからというわけではない。合奏などを始めると馬鹿のようになってしまうだけだ。私にしてもそうで、小一時間ほどギターの練習をして人に会うと、自分でも恥ずかしいぐらいまとまりのない、飛躍の多い、とっちらかったことしか話せなくなる。だから講義の前など、絶対にギターにさわってはいけない。ギターの練習をしたあと講義をすると、学生は呆れて、もう次の週からは出てこなくなる。こういう失敗を私はこれまで何度もしてきた。それは自分の脳が音楽脳になっていることに気づかなかったからだ。講義だけではなく、研究会などがあるときも楽器に触ってはいけない。と、気づいたのは、つい最近のことで、もはや手遅れである。たぶん多くの人は、私のことを、ものもまともに喋れない馬鹿だと思っているだろう。それはその通りなのだが、もう少しましなのです。