鈴木大介と武満徹

 最近、本棚の整理をしていると、『武満徹全集』(小学館)がセロファン紙に包まれた新品の状態で出てきたのでひどく驚いた。
 五年ほど亡き妻の看病に明け暮れているうちに買ったことさえ忘れていたということだろう。たしか、全三巻だったはずだが、なぜか第三巻がない。しかし、それはともかく、演奏を聴きながら、付録の冊子(と言っても、大型のしっかりした本だが)を読んでいると、武満がその死の前に絶賛したギタリストである鈴木大介のエッセイ「孤独な対話」に強く打たれた。鈴木さんは武満の突然の死に衝撃を受けるのだが、その箇所をそのエッセイから一部分引用しよう。

 「・・・その後の一年は、とても辛いものでした。ようやく出会えた心のささえのようなものが、2つに折れてしまったような感じでした。それどころか、そのささえがそこにあったのかどうかも疑われるほど、武満さんの存在が遠くなってしまったように思えました。良い師に恵まれ、周囲からの励ましも少なからずあったにもかかわらず、武満さんの死によって僕は本当に孤独の檻のようなものに閉じこめられてしまったことを知りました。あるいは、ほんとうはすべての人がそうであるように、自分だけは誰かが助けてくれるという甘えから、目覚めさせられたのかもしれません。僕は、武満さんが遺した音楽を聴きあさり、言葉を読み、武満さんが好きだった音楽を聴くことで、大きく深く空いてしまった時間の溝を埋めようとしました。去ってしまった人の影を追うことは、とても不安定で、自分を満足させるだけに過ぎないこともしばしばあります。でも、武満さんの音楽を演奏して、ご本人には永遠に感想を伺えなくなってしまったのだから、どうしようもありません。仕事という仕事もそれほどない時期で、明け方まで精霊となってしまった意志との語らいを続け、日が昇ると自分の不安に押しつぶされそうになって家を飛び出し、海を眺めにいったり鎌倉のお寺に行ったりしていました。・・・」

 この鈴木さんのエッセイにからめてわたし自身のことを言うのはあまり意味がないような気もするが、少し言わせてもらうと、俗物のわたしは学生の頃から武満の音楽を、ただただ武満が有名であるという理由から、レコードで聴いては、ははーと、感心したような顔をしていたが、実は、あまりひきこまれなかった。
 それが、五十歳を過ぎて、子供の頃から弾いていたギターの演奏をボケ防止のために再開し、武満がギターのために編曲した曲集や作品(ひどく難しかった)を弾いてみて、彼の天才に驚き、それ以来、彼の作品の素晴らしさが少し分かるようになった。と、同時に、武満の遺したエッセイも繰り返し読むようになった。
 武満の音楽を聴き、そのエッセイを読むのは、わたしの大きな喜びだ。このため、武満を失った鈴木大介の悲しみが少し分かるような気がする。