スタヴローギン症候群、ハチマキ訳

 【亀山訳4】
 もっともわたしは、こんなくそ面白くもない曖昧模糊とした説明にかまけず、序文なしでいきなり話をはじめてもよかったのだ。ひとは気に入れば、最後まできちんと読みとおしてくれるだろうから。
 しかし、ここでひとつやっかいなのは、伝記はひとつなのに小説がふたつあるという点である。おまけに、肝心なのはふたつ目のほうときている。
 重要なのは第二の小説であり、これはすでに現代、つまり現に今の時代におけるわたしの主人公の行動である。しかるに第一の小説は、すでに十三年も前に起こった出来事であり、これはもう小説というより、主人公の青春のひとコマを描いたものにすぎない。
 しかしわたしからすると、この第一の小説ぬきですますわけにはどうしてもいかない。そんなことをすれば、第二の小説の大半がわからなくなってしまうからだ。そういうわけで、わたしが直面した最初のとまどいは、いよいよやっかいなものになってくる。もしもわたしが、つまり当の伝記作者であるわたしが、こんな地味でとらえどころのない主人公なら小説ひとつでも十分すぎるなどと考えるとしたら、ふたつの小説からなるこの一代記は、いったいどんなものにしあがるというのか。そもそもわたしのこういう厚かましい態度は、どう申し開きができるのか?

 もちろん、これは原文でひとつの段落なのだが、これまでと同様、訳者が自分勝手に段落分けをしているので、作者の思考の流れが分断され、読者はその流れを追うのに困難を感じる。変なところで段落分けがあるので、読んでいると、一歩踏みだしたとたん溝がある、それを跨がなければならない、すたすた歩けない、といった感じだ。いうまでもないことだが、ドストエフスキーの頭の中で、この段落の文章は「ひとかたまりの思想」なのだ。私はドストエフスキーさんに同情する。
 また、これも亀山訳『カラマーゾフの兄弟』全般に見られる特徴だが、平仮名が多すぎる。こんな文章が読みやすいのだろうか。たとえば、
 「もしもわたしが、つまり当の伝記作者であるわたしが、こんな地味でとらえどころのない主人公なら小説ひとつでも十分すぎるなどと考えるとしたら、ふたつの小説からなるこの一代記は、いったいどんなものにしあがるというのか。」
 漢字が多すぎて真っ黒に見える文章も困りものだが、平仮名が多すぎて真っ白に見える文章も困りもの。どちらも読みにくい。やはり漢字と平仮名が適当にまじった灰色ぐらいがいいのでは。

 【不適訳】「こんなくそ面白くもない曖昧模糊とした説明にかまけず」の「かまけず」。
 【理由】亀山訳での日本語の流れだけ見ると、「かまける」というのは「その事だけに心が奪われていて、ほかの事を顧みる余裕の無い状態になる」(『新明解国語辞典』)ということで、辞書的・等質的な意味では、特に間違っているようには思えない。これでも一応意味は通る。しかし、変。それは、私たちは亀山のように「かまける」という言葉を使わないからだ。たとえば、

 「課長、やっと書類ができました」
 「おお、そうか、ご苦労様」
 「まあ、取引先への説明にかまけてまして、書類を作るのが遅れましたが」
 「え?説明にかまける?どういうこと?」
 「説明にかまけてはダメなんですか?」
 「そう、ダメ・・・(アホか、こいつは)」

 亀山はこのような日本語の慣用から外れた言葉の使い方を平気でする。「かまける」は次のように使う。「おッ母さんだって、いろんな用があるよ。・・・そうそうお前のことばかりにかまけてはいられないよ」(岩野泡鳴、「耽溺」)。
 ことは「かまける」に限らない。これまで見てきた亀山訳にもすでに同様の不適訳が見られた。要するに、亀山は母国語である日本語を質的に正しく、つまり日本語を日本語の共通感覚にそって使えないのだ。このような亀山の言葉遣いから連想するのは『悪霊』のスタヴローギンだ(「スタヴローギンの告白」参照)。彼もまたドストエフスキーのいう「土壌」(共通感覚)から遊離した母国語(ロシア語)しか使えなかった。
 亀山がスタヴローギンと同じような「根無し草」であるのか否かは知らない。しかし、その言葉遣いはまさに根無し草であるスタヴローギンのものだ。そこで、ここで見られるような母国語の慣用から質的に外れた言葉の使い方を「スタヴローギン症候群」と名づけておこう。
 【不適訳】「ひとは気に入れば、最後まできちんと読みとおしてくれるだろうから」の「ひと」が変。
 【理由】何か寂しげ。竹久夢二風。こほん、こほん。『カラマーゾフの兄弟』の作者は肺病を病んだ薄命の乙女か。スタヴローギン症候群。
 【不適訳】「しかし、ここでひとつやっかいなのは、伝記はひとつなのに小説がふたつあるという点である。おまけに、肝心なのはふたつ目のほうときている。」
 【理由】「ひとつ」、「ひとつ」、「ふたつ」、「ふたつ」。使いすぎ。番町皿屋敷か。え?分からない?「いちまーい、にまーい、さんまーい・・・」。
 【誤訳】「おまけに、肝心なのはふたつ目のほうときている。(改行)重要なのは第二の小説であり、これはすでに現代、つまり現に今の時代におけるわたしの主人公の行動である。」
 【理由】森井・NNが指摘済み。原文の"Главный роман второй"を二度訳している。つまり、「おまけに、肝心なのはふたつ目のほうときている」、「重要なのは第二の小説であり」という風に。亀山は無理な段落分けをしたので、意味がつながらなくなると思ってそうしたのだろう。こんな小細工をしたら、よけいに意味がつながらなくなってしまうのに。頭悪すぎ。
 【不適訳】「重要なのは第二の小説であり、これはすでに現代、つまり現に今の時代におけるわたしの主人公の行動である」の「現代、つまり現に今の時代に」。
 【理由】何が言いたいのだ。
 【誤訳】「重要なのは第二の小説であり、これはすでに現代、つまり現に今の時代におけるわたしの主人公の行動である」の主語と述語の対応関係(原、小沼)。
 【理由】主語=「第二の小説」、述語=「わたしの主人公の行動」。つまり、「第二の小説はわたしの主人公の行動だ」。これは論理的におかしい。「小説」は「行動」になり得ない。比喩的な意味ではなりうるが、この場合はそうではない。原文では「第二の小説」の「内容」をいったん代名詞の"это"([英]it)で受け、次に"это"が主語になり、それを述語の"деятельность моего героя"(「わたしの主人公の行動」)が受けるという構造。だから、「第二の小説」そのものが「わたしの主人公の行動」ということではなく、「第二の小説」の「内容」が「わたしの主人公の行動」を扱っているということ。
 【不適訳】「しかるに第一の小説は、すでに十三年も前に起こった出来事であり、これはもう小説というより、主人公の青春のひとコマを描いたものにすぎない」の「しかるに」。
 【理由】「しかるに」は文語。口語で訳しているんだろ?スタヴローギン症候群。また、詳しい説明は省くが、ここでも主語(「第一の小説」)と述語(「出来事」)の関係が論理的に成立しない訳文になっている(原、江川、小沼)。
 【不適訳】「しかるに第一の小説は、すでに十三年も前に起こった出来事であり、これはもう小説というより、主人公の青春のひとコマを描いたものにすぎない」の「主人公の青春のひとコマ」。
 【理由】原文は"один момент из первой юности моего героя"(直訳すると「わが主人公の青春期初期における一時期」)。"юность"(青春期)とは"отрочество"(少年少女時代:7−15歳位)から"зрелость"(成人期)の間の時期を指す。十五歳以上から二十歳前後。あとで、この当時、アレクセイは「二十歳になるかならないぐらいだった」という説明が出てくるので、その説明とも合う。このようなロシア語での「青春」という言葉の使い方は、ほぼ日本語の「青春」という言葉の使い方と同じ。
 ところが、この「青春期初期」([英]early youth)の訳しかたが難しい。「青春前期」(原)、「青年時代初期」(小沼)という言葉を私はこれまで耳にしたことがない。日常使う言葉に「青春後期」とか「青年時代後期」などという言葉があるとも思えない。お上が作った「後期高齢者」という不愉快な言葉はあるが。さらに、「青春期」(江川)にしても何だか発達心理学の教科書を読んでいるみたいで、私たちが日常使う言葉ではない。文体実験をするような小説でないかぎり、小説というものは私たちが日常使う言葉によって成り立っているはずだ。従って、ここは原文からできだけ離れないよう注意しながら、同時に、思い切った訳をしなければならない。二十歳前後の時期を何と言えばいいのだろうか。「まだ大人になりきっていない一時期」ぐらいでどうだろう。
 次は「青春のひとコマ」だ。「二十歳前後の時期」を「青春」と言ってもべつに構わないのだが、「青春」という言葉自体が恥ずかしい。「青春」などと口に出せるやつの気がしれない。さらに、それの「ひとコマ」となると、もうハチマキを締めて、ぶっ倒れるまで家の回りを走りたくなる。そうでもしないと、恥ずかしさのあまり悶死する。え?そりゃ、あんたが変だ、と言われるかもしれないが、そうなのだから仕方がない。というか、私は「青春のひとコマ」というような言葉を平気で使うようなやつと酒を飲みたくない。きっと私は悪酔いしてゲロを吐いてしまうだろう。私はイヤなやつと酒を飲むと必ずゲロを吐いたりからんだりするのだ。気をつけたまえ。で、こういう恥ずかしい訳を「ハチマキ訳」と命名し、これからハチマキ訳が出てきたら、ピンセットでつまんで窓の外に放り出そう。
 【誤訳】説明上の便宜のため、亀山訳とそれに対応する原文に番号を振る。
「①しかしわたしからすると、この第一の小説ぬきですますわけにはどうしてもいかない。そんなことをすれば、第二の小説の大半がわからなくなってしまうからだ。②そういうわけで、わたしが直面した最初のとまどいは、いよいよやっかいなものになってくる。③もしもわたしが、つまり当の伝記作者であるわたしが、こんな地味でとらえどころのない主人公なら小説ひとつでも十分すぎるなどと考えるとしたら、ふたつの小説からなるこの一代記は、いったいどんなものにしあがるというのか。そもそもわたしのこういう厚かましい態度は、どう申し開きができるのか?」
 【理由】不適訳と誤訳のかたまり。

①Обоитись мне без этого первого романа невозможно, потому что многое во втором романе стало бы непонятным. ②Но таким образом ещё усложняется первоначальное моё затруднение: ③если уж я, то есть сам биограф, нахожу, что и одоного-то романа, может быть, было бы для такого скромного и неопределённого героя излишне, то каково же является с двумя и чем объяснить такую с моей стороны заносчивость?

 すぐ気がつくのは、亀山訳①の文の冒頭にある「しかし(Но)」が原文①にはなく、一方、亀山訳②の文の冒頭にはない「しかし」が原文②にはあるということだ。なぜ亀山がこういうややこしいことをしたのかといえば、それは①の「しかしわたしからすると」という訳文から原文にはない段落分けをしたからだろう。つまり、①の「わたしからすると」という文の前に「・・・これはもう小説というより、主人公の青春のひとコマを描いたものにすぎない」という文があるので、亀山先生、改行しながら、思わず机を扇子(せんす)でたたき、「しかし」とやってしまったのだろう(講談師か)。気持は分かる。その方が調子がいい。で、その帳尻を合わせるために、原文②にはある「しかし」を省いたのだろう。いくらスタヴローギン症候群の亀山先生でも、二度も続けて「しかし」を使うわけにはゆかない。というより、スタヴローギン症候群に罹っているから、こういう恐れを知らぬ小細工ができたということか。
 ところが、天知る地知るわれ知るドストエフスキーさん知る、その結果、恐るべき事態が出来する。無意味な段落分けをしたため、亀山先生は激しい副作用に苦しまなければならなくなる。本人はまだ苦しんでいないようだが。
 つまり、①の訳文に付けた「しかし」と②の訳文に付けなかった「しかし」が訳文の文脈に大きく影響し、訳文が原文とは大きくかけ離れた、いわば原文のレールから外れた脱線列車のようになるのだ。
 もちろん、個々の訳文にももちろんこれまでと同様、不適訳と誤訳がまんべんなく散布されている。順に挙げてゆくと、①の「しかし」が付けられた最初の文が誤訳であるのはもちろんだが、二つめの文は不適訳(主語・述語関係の不備)。②は「しかし」が訳出されてないので誤訳。さらに、「わたしが直面した最初のとまどいは、いよいよやっかいなものになってくる(ещё усложняется первоначальное моё затруднение)」(原、小沼)が誤訳。「とまどい」は「やっかいなもの」などにならない。③の「ふたつの小説からなるこの一代記は、いったいどんなものにしあがるというのか(каково же является с двумя)」も誤訳。ここは「(小説ひとつでも余計なくらいなのに)二つも書くとはどういうことか」という意味。さらに、「そもそもわたしのこういう厚かましい態度は、どう申し開きができるのか?」という文の「申し開き」という訳語が原文からかけ離れた訳。原文では「説明」。
 このような個々の誤訳や不適訳も困りものだが、それ以上に困るのが、このような誤訳・不適訳の集合体が一丸となって、原文のいわばレールから外れた文脈の上を突っ走るという事態だ。特に、②の「そういうわけで」以下は文脈をたどれない。意味不明。トンボ文続出。ここまで来ると、壮観というしかない。この素晴らしい誤訳・不適訳の祭典を亀山訳と試訳を読み比べ楽しもうではないか、諸君。

【試訳4】
 もっとも、私はこんな実に下らぬ朦朧とした釈明などせず、前書きなどなしに、あっさり小説を始めてしまえばよかったのかもしれない。気に入れば、誰でも最後まで読むものだ。しかし、因果なことに、伝記はひとつなのに、小説はふたつなのだ。大事なのは二番目の小説なのだが、そこではわが主人公の活動、それも、現在、つまり、いままさに流れている時間の中での活動について述べるつもりだ。一方、一番目の小説は、その舞台が十三年前にさかのぼる。これはほとんど小説とさえ言えないもので、主人公がまだ大人になりきっていない一時期を描いたものにすぎない。私としては、この一番目の小説なしに済ますわけにはゆかない。というのも、そんなことをしたら、二番目の小説で述べる多くの事柄が理解不能なものになってしまうからだ。ところが、こうなると、私が冒頭で読者諸君に説明しようとした事態が、さらに複雑なものになってしまう。すなわち、当の伝記作者である私自身が、無名の、これといった特徴もないわが主人公にはひとつの小説でさえ十分すぎるかもしれないと考えているのに、それを二つも書こうというのだ。このように厚かましい私の態度をどう説明すればよいのだろう。

 【亀山訳4】
 もっともわたしは、こんなくそ面白くもない曖昧模糊とした説明にかまけず、序文なしでいきなり話をはじめてもよかったのだ。ひとは気に入れば、最後まできちんと読みとおしてくれるだろうから。
 しかし、ここでひとつやっかいなのは、伝記はひとつなのに小説がふたつあるという点である。おまけに、肝心なのはふたつ目のほうときている。
 重要なのは第二の小説であり、これはすでに現代、つまり現に今の時代におけるわたしの主人公の行動である。しかるに第一の小説は、すでに十三年も前に起こった出来事であり、これはもう小説というより、主人公の青春のひとコマを描いたものにすぎない。
 しかしわたしからすると、この第一の小説ぬきですますわけにはどうしてもいかない。そんなことをすれば、第二の小説の大半がわからなくなってしまうからだ。そういうわけで、わたしが直面した最初のとまどいは、いよいよやっかいなものになってくる。もしもわたしが、つまり当の伝記作者であるわたしが、こんな地味でとらえどころのない主人公なら小説ひとつでも十分すぎるなどと考えるとしたら、ふたつの小説からなるこの一代記は、いったいどんなものにしあがるというのか。そもそもわたしのこういう厚かましい態度は、どう申し開きができるのか?