構造的誤訳

 【亀山訳5】
 これらの問いに答えようにも、わたし自身混乱しているので、ここはいっさい解答なしで済ませることにする。むろん、勘のするどい読者は、そもそものはじまりからわたしがそういう腹づもりであったことをとっくに見抜いて、愚にもつかない御託をならべ、貴重な時間を費やしていることをいまいましく感じるばかりだったにちがいない。
 それに対してなら、こんどははっきりと答えられる。わたしがこうして愚にもつかない御託を並べ、むざむざ貴重な時間を費やしたのは、第一に読者への礼儀を念頭に置いてのことであり、第二に「これでまあ、打つべき手は打った」という、ずるい考えから来ているのである。
 そうは言っても、この小説が「全体として本質的な統一を保ちながら」おのずとふたつの話に別れたことを、わたしは喜んでいるくらいだ。最初の話を読みおえた段階で、読者のみなさんはこれから先、第二部を読みはじめる価値がはたしてあるかどうか自分で決めることになる。
 むろんだれにも、なんの義理もないのだから、最初の短い話の二ページ目で本をなげだし、二度と開かなくたってかまわない。しかし世の中には、公平な判断を誤らないため、何がなんでも終わりまで読みとおそうとするデリケートな読者もいる。たとえばロシアの批評家というのは、押しなべてそういう連中である。
 というわけで、そういう読者が相手だと、こちらとしてもじつにやりやすい。だが彼らの誠実さをありがたく受け止めるにしても、わたしとしてはやはり小説の最初のエピソードでこの話を放り出してもよいよう、ごくごく正当な口実をみなさんに提供しておく。  序文はこれでおしまいである。こんなもの余分だという意見にわたしは賛成だが、書いてしまった以上は仕方がない、そのまま残しておくことにしよう。
 では、さっそく本文にとりかかる。

 原文で「では、さっそく本文にとりかかる」まではひとつの段落。原文でも「では、さっそく本文にとりかかる」は改行されている。
 【誤訳】「これらの問いに答えようにも、わたし自身混乱しているので」の「混乱している」。
 【理由】原文では「このような問題をどう解決したらよいのか途方にくれるばかり」。それを「これらの問いに答えようにも、わたし自身混乱しているので」と訳すと、作者は別の深刻な問題を抱えていて、いま、そんな問いに答えている場合ではない、ということになる。たとえば、

 「あなた、あす、映画に行きましょうね」
 「・・・」
 「あなた、聞こえているの」
 「・・・」
 私は混乱していて、妻の質問に答えることができなかった。「黒猫」の知子から来た「はげおやじ、お前なんぞ死んじまえ!」というメールを見つめていた。

 【誤訳】+【不適訳】「勘のするどい読者は、そもそものはじまりからわたしがそういう腹づもりであったことをとっくに見抜いて」の「勘のするどい読者」と「そういう腹づもり」。
 【理由】「勘」というのは「第六感」あるいは「直感」のこと。だから、「勘がするどい」とは「するどい直感を持っている」ということ。一方、原文の"прозорливый"は、「洞察力がある」あるいは「慧眼な」ということで、先が読めるということ。たとえば、夫の浮気を一発で見抜くことができる妻は、するどい「勘」を持っているかもしれないが、そんな浮気な男と結婚した彼女は「洞察力」を持っているとは言えない。「するどい勘」と「洞察力」は別物。誤訳。
 「腹づもり」が変。辞書的・等質的にはこれでいいのだろうが、政治家とか商売人などが使う言葉。スタヴローギン症候群。不適訳。
 【不適訳】「愚にもつかない御託」。
 【理由】「愚にもつかない御託」は原文で"бесплодные слова"で直訳すれば「何も生みださない(不毛な)言葉」。要するに、ごたごた議論するけれど、何も結論が出ないということ。一方、「愚にもつかぬ」というのは「愚」にもならないぐらい「愚」であるということで、たんに「バカバカしい」「下らない」という意味。「何でも作者の経験した愚にもつかぬ事を、・・・牛の涎(よだれ)のように書くのが流行(はや)るそうだ」(二葉亭四迷、「平凡」)。従って、原文と「愚にもつかない御託」の等質的意味が違う。誤訳に近い不適訳。
 【誤訳】「それに対してなら、こんどははっきりと答えられる」の「それに対してなら」。
 【理由】「それに対してなら」の「それ」が何を受けるのかがはっきりしない。この「それ」は、その直前の「どうして不毛な言葉を書きつらね、貴重な時間を無駄にしているのか」(試訳)という読者からの問いを指している。こう訳して初めてこの応答関係が明瞭になるのに、亀山はそんな風に訳していない。また亀山はその応答関係を分断するような形で改行してしまっているので、分かりにくい応答関係がさらに分かりにくいものになっている。
 【誤訳】「それに対してなら、こんどははっきりと答えられる。わたしがこうして愚にもつかない御託を並べ、むざむざ貴重な時間を費やしたのは、第一に読者への礼儀を念頭に置いてのことであり、第二に「これでまあ、打つべき手は打った」という、ずるい考えから来ているのである」の「第二に「これでまあ、打つべき手は打った」という、ずるい考えから来ているのである」(原、江川、小沼)。
 【理由】原文を示し、試訳を掲げる。

На это отвечу уже в точности: тратил я бесплодные слова и драгоценное время, во-первых, из вежливости, а во-вторых, из хитрости: всё-таки, дескать, заране в чём-то предупредил.(このような疑問に対してなら、はっきり答えることができる。私が不毛な言葉を書きつらね貴重な時間を無駄にしたのは、まず読者への礼儀のためであり、次に狡猾さのためだ。「いずれにせよ、私はあらかじめちゃんと警告しておきましたからね」というわけだ。)

 この箇所、亀山、原、江川、小沼、さらには米川正夫池田健太郎など全員が揃って誤訳を犯している。つまり、「いずれにせよ、私はあらかじめちゃんと警告しておきましたからね」と訳した、原文ではコロン以下の間接話法の文章( всё-таки, дескать, заране в чём-то предупредил)が、その直前の「次に狡猾さのためだ」(а во-вторых, из хитрости)だけにかかると見ている。
 しかし、コロン以下の文章は、その直前の文章全体、すなわち、「私が不毛な言葉を書きつらね貴重な時間を無駄にしたのは、まず読者への礼儀のためであり、次に狡猾さのためだ」にかかる。コロン以下の文章が、コロンの前の文の最後の文だけにかかるというのはどう考えても不自然だ。
 亀山たちがそんな風に解釈したのは、人間心理に疎いからという他ない。つまり、彼らは礼儀からいろいろ言い訳をするような律儀な善人が、同時に、狡く立ち回る悪人になりうるとは思わないのだ。つまり、ぺこぺこ謝りながら、腹の中では「ふふ、うまいこといったわ、越後屋さん」とほくそ笑むというような人間が存在していることが理解できない。いや、いつもは理解しているし、失礼ながら、彼ら自身そのような人間なのかもしれないのだが、いざ文学作品になると分からないということなのか。それとも米川訳の誤訳を踏襲しただけなのか。いずれにせよ、亀山たちのように訳すと、作者は善と悪の二つの人格に引き裂かれた狂人だということになる。こういうことはあり得ない。作者は正常な人間だ。仮に「慇懃無礼」という言葉から連想して新語を造れば、この箇所では、いわばアマルガム状に作者の「慇懃」と「狡猾」が混ぜ合わされた「慇懃狡猾」とも言うべき態度が述べられていると見るべきだ。
 ちなみに、『カラマーゾフの兄弟』の朗読者ユーリー・ザボロフスキーは、": всё-таки"のコロンのところで十分間を取って読んでいる。これはつまり": всё-таки"以下がコロンの前の文章全体にかかると見ているということだろう。
 【誤訳】「そうは言っても、この小説が「全体として本質的な統一を保ちながら」おのずとふたつの話に別れたことを、わたしは喜んでいるくらいだ」の「そうは言っても」。
【理由】読者は前の段落の「それに対してなら」同様、この「そうは言っても」にも面食らう。「そうは言っても」と言うから、どんなことを言ったのかと、前の段落を見ても分からない。つまり、「そうは言っても」に続く文、「この小説が「全体として本質的な統一を保ちながら」おのずとふたつの話に別れたことを、わたしは喜んでいるくらいだ」に対立するような内容の文が前の段落にはない。
 しかし、ここは原文で"Впрочем"(もっとも)なので、これを「そうは言っても」と訳した亀山が誤訳を犯しているわけでもない。それなのに読者は面食らう。これはやはり亀山が無理な段落分けをしたからだ。無理な段落分けをしたため、「そうは言っても」と言われると、読者は反射的に直前の段落を参照する。すると、そこに「そう」に当たる内容の文はないので、読者は途方にくれる。
 要するに、ここは「作者の言葉」の仕上げとなるこの段落全体の流れを受けて、「もっとも」と文をつないでいるだけだ。つまり、「小説が二つになったことについては読者にはひと言で説明できないような問題が出てきて申し訳ない。狡猾なことまでしてしまった。ほんとに申し訳ない・・・もっとも」、という風に話がつながってゆく。このような話の続き具合が無理な段落分けによって分断され、わけの分からないものになってしまったのだ。このような誤訳は、原文通りに段落を戻すしか修正する方法はない。そうすれば、「そうは言っても」という言葉も誤訳ではなくなる。つまり、これは無理な段落分けから来た副作用とも言うべき「構造的誤訳」だ。先の「それに対してなら」も、もちろん構造的誤訳だ。これからもこのような誤訳は亀山訳『カラマーゾフの兄弟』に続々と出現する。
 【誤訳】「そうは言っても、この小説が「全体として本質的な統一を保ちながら」おのずとふたつの話に別れたことを、わたしは喜んでいるくらいだ。最初の話を読みおえた段階で、読者のみなさんはこれから先、第二部を読みはじめる価値がはたしてあるかどうか自分で決めることになる。(改行)むろんだれにも、なんの義理もないのだから、最初の短い話の二ページ目で本をなげだし、二度と開かなくたってかまわない。」の全体。
【理由】森井・NNが指摘済みの箇所だが、それとは別に亀山訳を批判してゆこう。
 この段落は「作者の言葉」の要だが、亀山はそのことをまったく理解していない。
 ここで作者は、『カラマーゾフの兄弟』がどんな風にして出来上がったのかについて述べている。従って、このことを読者によく分かるよう注意しながら訳さなくてはいけない。
 作者は当初、ひとつの小説「長編小説(ラマーン)」(роман:[英]novel)を書くつもりでいた、しかし、制作過程でそれが、いわば熟れたスイカみたいに、自然にパシッと二つに割れてしまった(разбился)。そして、その割れたそれぞれが「物語(ラスカース)」(рассказ:[英]story)になった。作者はそう説明する。
 ここでなぜ作者がその二つに割れたそれぞれの文章を「小説」と呼ばず「物語」と呼ぶのかといえば、割れたときには、この先どうなるか分からない、従って、どれほどの長さになるかも分からない、ただの「物語(ラスカース)」にすぎなかったからだ。
 ロシア語を知っておられる方はご存知のように、ロシア語では、短い物語を「短編小説(ラスカース)」(рассказ)、中くらいの長さの物語を「中編小説(ポーヴェスチ)」(повесть)、『カラマーゾフの兄弟』のような長い物語を「長編小説(ラマーン)」(роман)と呼ぶ。これは小説を長さで区別しているわけで、その中味はと言えば、いずれも「物語」(ラスカース)だ。要するに、長い短いはあってもすべて「物語」(ラスカース)で、短い「物語」(ラスカース)は、「ラスカース」という名称をそのまま使って「短編小説(ラスカース)」に、中くらいの長さの「物語」は中編小説に、とても長い「物語」は長編小説になる。「物語」と「短篇小説」がどちらも「ラスカース」なのはややこしいではないかと言う人がいるかもしれない。しかし、文脈によってその意味が決まるので、よほどのとんまでない限り間違えない(亀山は間違えているが)。
 さて、前回扱った「試訳4」の箇所で作者が述べているように、この「作者の言葉」を書いている時点では、「伝記はひとつなのに、小説はふたつなのだ」。つまり、『カラマーゾフの兄弟』は割れたときは二つの「物語」にすぎなかったのに、今ではそれが二つとも長い物語、つまり、二つの「(長編)小説」になっているということだ。
 従って、ここでは結局、「物語」=「(長編)小説」なのだが、だからといって、「物語」を「小説」と訳してしまっていいものか。「小説」と訳してしまえば、これまで述べてきたような制作過程が読者に完全に見えなくなってしまう。しかし、「ラスカース」を原文通り「話」(原)とか「物語」(江川、小沼)と訳すと、意味が通りにくくなるのも明らかだ。それこそ森井友人のような「洞察力のある」読者なら洞察できるだろうが(「一読者による新訳『カラマーゾフの兄弟』の点検」参照)、皆が皆、森井のような読者ばかりではない。さあ、どうするか。結局、意味が通りにくい訳より通る訳の方がいいのに決まっているので、私は「ラスカース」を「物語」と訳さず、「小説」と訳すことにした。
 ところで、亀山訳だが、亀山が以上のようなことで悩んだ痕跡は見られない。というより、亀山はそもそも以上のような問題があるということに気づいていなかったようだ。これは、亀山の「最初の話を読みおえた段階で、読者のみなさんはこれから先、第二部を読みはじめる価値がはたしてあるかどうか自分で決めることになる」という訳文を見れば明らかだ。亀山はここで「一番目の小説」を「最初の話」と、「二番目の小説」を「第二部」という風に訳している。こんな風に訳すと、読者には何が何だか分からなくなるだろうということさえ亀山には分かっていないように思われる。読者がこの箇所を読んで何が何だか分からなくなるのは、亀山が何が何だか分からないまま訳しているからだ。
 このような私の推量の正しさをさらに裏付けてくれるのが、次の亀山の「最初の短い話」という訳だ。これはもちろん「一番目の(長編)小説」のことで、亀山がここで作者の言う「物語」(あるいは「話」)とは「(長編)小説」のことだと了解していれば、決して出てこない訳だ。ひょっとして「ラスカース」ってのは「短篇小説」のことかもな、などと思っているから、こんな変な訳が出てくる。これでは外大ロシア語学科一年生並の誤訳だ。
 【不適訳】「この小説が「全体として本質的な統一を保ちながら」おのずとふたつの話に別れたことを」の「本質的」(原、江川、小沼)。
 【理由】よく考えると何を意味しているのかよく分からないという言葉は多いが、その中でも代表的なのがこの「本質的」という言葉だ。どうしても使わなければいけないときもあるだろうが、私は基本的にこんな言葉を小説の翻訳に使うのは反対だ。使わないで済ませるのなら、そうしたい。ここで「全体として本質的な統一を保つ」というのは、二つに割れた小説をひとつのものにするさまざまな要素を、その二つの小説が共有している、ということだろう。従って、「本質的」という言葉を使わないで、そのことを表現すれば済む。
 【不適訳】「しかし世の中には、公平な判断を誤らないため、何がなんでも終わりまで読みとおそうとするデリケートな読者もいる」の「デリケートな読者」。
 【理由】「デリケート」という言葉も「本質的」と同様、分かったようで分からない。「礼儀正しい」ぐらいに訳すべき。杜撰な不適訳は誤訳を生みやすいが、このあとの亀山訳はその法則通りになっている。
 【誤訳】「しかし世の中には、公平な判断を誤らないため、何がなんでも終わりまで読みとおそうとするデリケートな読者もいる。たとえばロシアの批評家というのは、押しなべてそういう連中である。(改行)というわけで、そういう読者が相手だと、こちらとしてもじつにやりやすい。だが彼らの誠実さをありがたく受け止めるにしても、わたしとしてはやはり小説の最初のエピソードでこの話を放り出してもよいよう、ごくごく正当な口実をみなさんに提供しておく。」
 【理由】またしても、誤訳のかたまり。こういう文章を読んで理解できる人は超能力の持ち主だ。超能力者ではない私はいくら読んでもこの訳文を理解することができない。めまいがするだけだ。
 これが無茶苦茶な訳文になっているのは、亀山がこの箇所をロシアの批評家に対する皮肉だということを理解していないからだ。このため、「というわけで」という訳は、何が「というわけで」なのか。さっぱり分からない。また、「そういう読者が相手だと、こちらとしてもじつにやりやすい」という訳文では、なぜ「やりやすい」のかがさっぱり分からない。また、「彼らの誠実さをありがたく受け止めるにしても」という訳文で、なぜ突然、ロシアの批評家のことを「誠実」だなどと言うのかが分からない。彼らは「誠実」ではなく、「デリケート」ではなかったのか。「デリケートな読者」=「誠実な読者」なのか。まさか。デリケートで神経質な読者は、たとえば、亀山訳にイライラするだけだ。一方、誠実な読者は亀山訳を読んで戸惑うだけだ。デリケートと誠実は関係がない。
 こんなことになるのは、亀山がドストエフスキーの論争文を読んだことがないからだろう。たとえば、1860年代の彼のサルトィコーフ・シチェドリーン相手のおびただしい数の論争文などを読むと、このような皮肉にあふれた文(あまり切れ味は良くないにしても)など簡単に理解できるようになるはずだ。ちなみに、亀山以外の訳(原、江川、小沼)ではすべて、江川以外は意識しているのかどうかは分からないが、一応、ロシアの批評家に対する皮肉な調子は出ている。亀山訳は意味不明なので、皮肉な調子が出る出ない以前の段階にある。
 要するに、ここで作者はロシアの批評家がいくら「礼儀正しい」読者であっても、「こんなぱっとせん人物を主人公にした小説など読む気もせんわ」と言って、小説を途中で放り出してもかまわない、ええ、そりゃ無理のないことです、そんなぱっとしない人物を主人公にしたあたしが悪いのです、すみませんね、あなた方は本当に誠実な方たちばかりなのにね、ほんとにほんとに立派な方たちなのにね、ごめんなさいね、と皮肉を言っているのである。

 【試訳5】
 このような問題をどう解決したらよいのか途方にくれるばかりなので、私はもう一切解決なしで済ますことにした。もちろん、慧眼な読者は私が最初からそうするつもりであったことを、とっくに見抜いておられたことと思う。そして、苛立ちながら、私がどうして不毛な言葉を書きつらね、貴重な時間を無駄にしているのかと疑問に思われたことだろう。このような疑問に対してなら、はっきり答えることができる。私が不毛な言葉を書きつらね貴重な時間を無駄にしたのは、まず読者への礼儀のためであり、次に狡猾さのためだ。「いずれにせよ、私はあらかじめちゃんと警告しておきましたからね」というわけだ。もっとも、私はこの小説が「全体の統一性をまったく損なうことなく」自然に二つに割れたことを喜んでさえいる。なぜなら、読者は一番目の小説を読むことによって、二番目の小説が読むに値するものかどうか自分で判断できるからだ。もちろん、誰だって何ものにも縛られていないのだから、一番目の小説を二ページくらい読んで放り出し、それきり二度と開かなくともかまわない。しかし、中には、何としても小説を最後まで読み通し、間違いを犯さず公平に評価したい、そう願ってやまない礼儀正しい読者がいるかもしれない。たとえば、ロシアの批評家はすべてそのような読者だ。こういう読者が相手だと、私の心も少しは軽くなる。というのも、いくら彼らが几帳面で誠実だとしても、小説の最初のエピソードの途中で、誰はばかることなく小説を放り出してもかまわない、という口実を私は彼らに与えることができたのだから。さて、これが序文のすべてだ。こんなもの余計だというご意見に私も賛成だ。しかし、すでに書いてしまったので、このままにしておこう。
 では、小説に取りかかる。

 【亀山訳5】
 これらの問いに答えようにも、わたし自身混乱しているので、ここはいっさい解答なしで済ませることにする。むろん、勘のするどい読者は、そもそものはじまりからわたしがそういう腹づもりであったことをとっくに見抜いて、愚にもつかない御託をならべ、貴重な時間を費やしていることをいまいましく感じるばかりだったにちがいない。
 それに対してなら、こんどははっきりと答えられる。わたしがこうして愚にもつかない御託を並べ、むざむざ貴重な時間を費やしたのは、第一に読者への礼儀を念頭に置いてのことであり、第二に「これでまあ、打つべき手は打った」という、ずるい考えから来ているのである。
 そうは言っても、この小説が「全体として本質的な統一を保ちながら」おのずとふたつの話に別れたことを、わたしは喜んでいるくらいだ。最初の話を読みおえた段階で、読者のみなさんはこれから先、第二部を読みはじめる価値がはたしてあるかどうか自分で決めることになる。
 むろんだれにも、なんの義理もないのだから、最初の短い話の二ページ目で本をなげだし、二度と開かなくたってかまわない。しかし世の中には、公平な判断を誤らないため、何がなんでも終わりまで読みとおそうとするデリケートな読者もいる。たとえばロシアの批評家というのは、押しなべてそういう連中である。
 というわけで、そういう読者が相手だと、こちらとしてもじつにやりやすい。だが彼らの誠実さをありがたく受け止めるにしても、わたしとしてはやはり小説の最初のエピソードでこの話を放り出してもよいよう、ごくごく正当な口実をみなさんに提供しておく。  序文はこれでおしまいである。こんなもの余分だという意見にわたしは賛成だが、書いてしまった以上は仕方がない、そのまま残しておくことにしよう。
 では、さっそく本文にとりかかる。

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 一部修正した(2009/11/24)。

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 横板に雨垂れ氏のアドバイスに従い、亀山訳を試訳の直後にも掲げることにした。また、この様式をこれまでの亀山訳『カラマーゾフの兄弟』の批判すべてに適用する。要するに、亀山訳を批判文の冒頭と末尾という風に、二度掲げるわけだ。こうすれば、読者は亀山訳を参照するため長い批判文の冒頭まで戻る必要がなくなり、読むのが少しは楽になる。名案をご教示下さった横板に雨垂れ氏に心から感謝する(2009/11/26)。