「トンボ文」と命名

 【亀山訳3】
 もしもみなさんがこの最後のテーゼに同意せず、「いや、そんなことはない」とか、「かならずしもそうとは限らない」とでも答えてくれるなら、わたしの主人公アレクセイ・カラマーゾフのもつ意義について、わたしとしてはきっと大いに励まされる思いがするだろう。なぜなら、変人は「かならずしも」部分であったり、孤立した現象とは限らないばかりか、むしろ変人こそが全体の核心をはらみ、同時代のほかの連中のほうが、なにか急な風の吹きまわしでしばしばその変人から切り離されているといった事態が生じるからである・・・。

 ここは短い段落なので、さすがの亀山も段落を切り分けることができなかったらしい。
 【不適訳】「わたしの主人公アレクセイ・カラマーゾフのもつ意義について、わたしとしてはきっと大いに励まされる思いがするだろう。」
 【理由】ロシア語はとても簡単。和訳も簡単なはず。それにも拘わらず、亀山訳は変。その原因は、「・・・意義について、わたしとしてはきっと大いに励まされる思いがするだろう。」という文の組み立て方にある。「励まされる」のは「わたし」なのに「わたしとしては・・・だろう」と他人事みたいに言うのは変だ。
 また、「意義について・・・励まされる思いがする」というのも意味が通じない。亀山の書く文章にはよくあるケースで、読めば読むほど、めまいがしてきて分からなくなる、という文章だ。自分がトンボになったような気分になる。え?分からない?トンボの前で人差し指をくるくる回すと、トンボが目を回してぽとんと落ちるあれです。こういう亀山の文章をこれから「トンボ文」と呼ぶことにしよう。これまで、すでにそういうトンボ文を見て目を回してきたが。
 【誤訳】「むしろ変人こそが全体の核心をはらみ」
 【理由】「はらむ」が間違い。原文では変人が自分の裡に社会全体の核となるものを持っているということを述べているだけ。ちなみに、「はらむ」と言えば、子供を妊(はら)むというのが元の意味で、そこから「その中に(問題となる)何かを含み持つ」(『新明解国語辞典』)という意味が派生する。このケースのような良いものを妊む(あるいは「孕む」)場合には使わない。真・善・美に不感症の亀山はアレクセイが良いものを孕んでいるとは思わなかったらしい。だから、こういう変な訳を平気でする。「不気味な殺気を孕んだ静穏のまま、季節は八月に入って行った。」(梅崎春生、「桜島」)
 【不適訳】「同時代のほかの連中のほうが、なにか急な風の吹きまわしでしばしばその変人から切り離されているといった事態が生じるからである・・・」
 【理由】早速、トンボ文出現。これがトンボ文になった第一の理由は、「同時代のほかの連中のほうが、なにか急な風の吹きまわしでしばしばその変人から切り離されているといった」という長たらしい形容詞句が「事態」を修飾し、その重い形容詞句を抱えた主語である「事態」が短い「生じる」という述語と結ばれているからだ。この頭でっかちの構造がトンボ文の第一の原因。次の原因は、同じ助詞の「が」で受ける「同時代のほかの連中のほう」と「なにか急な風の吹きまわしでしばしばその変人から切り離されているといった事態」が並列関係にあるように錯覚しそうになるからだ。こういうところで不用意に「が」を並べてはいけない。亀山はどうすれば読みやすい文章になるか、何にも考えていない。
 光文社が後押ししている「感想文コンクール」で、こんな訳文を読まなければならない高校生はかわいそうだ。せっかくそれまで培ってきた日本語能力が、亀山訳のドストエフスキーを読むことによって、徹底的に破壊されてしまう。高校生が亀山訳のドストエフスキーを読まないことを祈るばかりだ。

 【試訳3】
 もし諸君がこの最後の命題に同意せず、「そうではない」あるいは「そうとも限らない」とお答えになるとすれば、私もアレクセイ・フョードロヴィッチを主人公にしてよかった、と胸をなで下ろすことができる。なぜなら、変人というのは「必ずしも」社会の孤立した部分であるとは言えないからだ。それどころか、逆に、まさにその変人が社会全体の核になるものを自分の内に抱えている場合もある。そして、彼以外の同時代人がすべて、何らかの一時的な風によって、なぜかひととき、その変人から切り離されているという場合もあるのだ。

 【亀山訳3】
 もしもみなさんがこの最後のテーゼに同意せず、「いや、そんなことはない」とか、「かならずしもそうとは限らない」とでも答えてくれるなら、わたしの主人公アレクセイ・カラマーゾフのもつ意義について、わたしとしてはきっと大いに励まされる思いがするだろう。なぜなら、変人は「かならずしも」部分であったり、孤立した現象とは限らないばかりか、むしろ変人こそが全体の核心をはらみ、同時代のほかの連中のほうが、なにか急な風の吹きまわしでしばしばその変人から切り離されているといった事態が生じるからである・・・。