奇人変人は害になる?

【亀山訳2】
 なかでも、最後の問いがもっとも致命的である。というのは、その問いに対して、わたしは次のように答えるしかすべがないからだ。「小説をお読みになれば、おのずからわかることですよ」と──。
 しかし、読み終わったあとでもやはり答えが見つからない、主人公アレクセイ・カラマーゾフの優れた面に同意していただけないとしたら、どうするか。わたしがこんな言い方をするのは、残念ながら、そのことが前もって予想できるからだ。わたしに言わせると彼はたしかにすぐれた人物なのだが、そのことを読者にしっかり証明できるのか、じつのところきわめて心もとない。要するに彼は、たぶん実践家ではあっても、あいまいでつかみどころのない実践家なのである。
 もっとも今のご時世、人々に明快さを求めるほうが、かえっておかしいというべきなのだろう。ただひとつ、おそらくかなり確実な点といえば、彼が、変人といってもよいくらい風変わりな男だということである。しかし、風変わりであったり変人であったりするというのは、たしかにそれで世間の注意を引くことはあっても、むしろ害になるほうが多い。とくに昨今の混乱をきわめる時代、だれもが個々のばらばらな部分をひとつにまとめ、何らかの普遍的な意義を探りあてようとやっきになっている時代はなおさらである。そもそも変人というのは、多くの場合、社会の一部分にして孤立した現象にすぎない。そうではないか?

 【不適訳】「なかでも、最後の問いがもっとも致命的である」の「なかでも」(小沼)。
 【理由】「なかでも」を使うのはかまわないが、この場合、気持が悪い。この気持の悪さは、亀山が原文の前段落を機械的に区切ってしまっていることから生じている。亀山訳ではこの文の直前の二つの段落は次のようなものだった。再び引用する。

 私の主人公、アレクセイ・カラマーゾフの一代記を書きはじめるにあたって、あるとまどいを覚えている。それはほかでもない。アレクセイ・カラマーゾフを私の主人公と呼んでいるものの、彼がけっして偉大な人物ではないことはわたし自身よくわかっているので、たとえば、こんなたぐいの質問が必ず出てくると予想できるからである。
 あなたがこの小説の主人公に選んだアレクセイ・カラマーゾフは、いったいどこが優れているのか?どんな偉業をなしとげたというのか?どういった人たちにどんなことで知られているのか?一読者である自分が、なぜそんな人物の生涯に起こった事実の探求に暇をつぶさなくていはならないのか?

 すでに述べたように、ドストエフスキーはこの単一の段落で作者と読者の応答関係を鮮やかに記述している。つまり、「作者(著者)の弁明」(「ぱっとせん男を主人公にしてすんませんな」というような弁明)と、その弁明に対する読者の抗議(「何で、そんな男を主人公にしたんや」云々)。
 この応答関係が亀山訳では二つに分断され、その結びつきが弛緩したものになってしまっている。宮脇孝雄が言うように、こういうのが「勝手に段落の切り方をいじった副作用」なのだ。
 そして、「なかでも」とくる。これが変なのは、私たちはさまざまな事例を並べたあと、間髪を入れず、「なかでも、云々」と続けるからだ。たとえば、

 ぼくはチョコレートとアンパンとメロンパンとシュークリームが好きだ。なかでも好きなのが、シュークリームだ。

 という風に、「なかでも」という言葉は、ある複数の事例のあとに、たたみかけるような形で使われる。これを、たとえば、

 ぼくはチョコレートとアンパンとメロンパンとシュークリームが好きだ。
 なかでも好きなのが、シュークリームだ。

 と改行してしまうと、間のびして、のんきな感じになる。お坊さんの心温まる講話ならそれでもいいが、ここは困る。のんきにならなければならない理由は何もない。
 ちなみに、小沼訳でも「中でも」が使われているが。亀山訳ほどのんきな感じは受けない。これは前の段落を亀山のように二つに分けていないためだ。しかし、「中でも」が余計な言葉であるのは同じだ。なぜなら、「なかでも」などというような言葉は原文にはないからだ。ドストエフスキーは改行した段落の最初の文章で、いきなり「最後の問いがもっとも致命的である」(誤訳だが)と書いているだけなのである。このように書くことによって、段落間の関係が緊密になり、文章がぴしっと締まる。
 【誤訳】「最後の問いがもっとも致命的である」(Последний вопрос самый роковой)の「致命的(роковой)」(江川、小沼)。
 【理由】「致命的な問い」などない。「きみのその問いは致命的だよ」などと言う人はいない。いるとすれば、その人の日本語能力は致命的な欠陥を持つ。「致命的な問い」というような言葉を使うことができる亀山、江川、小沼(昔に遡れば米川正夫)の日本語能力に私は疑いの目を向けざるをえない。
 言うまでもないことだが、致命的なのは欠陥、傷、損害、病、打撃など、マイナス・イメージのあるものだ。「問い」のようなマイナス・イメージをもたない言葉は、「致命的」という言葉と結びつかない。ここでいう「致命的な問い」(роковой вопрос:[英] fateful question)とは、その問いにどう答えるかによって、今後の運命(рок:[英] fate)が決まってしまうような問いのことだ。たとえば、
 「わたしのこと、愛している?」
 「分からない」
 「えー、ひどい。じゃ、これきりね」
 「わ、わかった。愛しているよ」
 てな風に答えてしまって、それから十年後のある晴れた朝。
 「あのとき、あなた、私を愛しているって言ったわね」
 「・・・」
 「じゃ、このメールは何なのよ」
 「・・・」
 「誰よ、この女」
 と、とっちめられるハメになるような質問が「致命的な問い」。つまり、うっかり答えてはあとで困るようになるかもしれない問い。今後の運命を決するような問い。だから、「最後の問いがいちばん答えにくい」という風に訳しておくのがいいと思うのだが、どうだろうか。ちなみに、原訳は「最後の質問はいちばん決定的だ」となっているが、これも何を言いたいのか分からない訳。原選手、空振り。
 【不適訳】「というのは、その問いに対して、わたしは次のように答えるしかすべがないからだ」の「すべ」。
 【理由】ここはじつに気持がわるい。不適訳ではあるが、じっさいはもっと罪が重い。こういう気持のわるい言葉の使い方をする亀山は百叩きの刑を受けなきゃいけない。え?叩かれても「もっと、もっと」と涙を流して喜ぶかもしれないって?そうかもな。亀山はひっぱたかれて泣いているマトリョーシャが随喜の涙を流していると思ったぐらいだからな。
 この「すべ」の使い方を気持がわるいと感じるのは、術(すべ)という言葉は通常、次のような緊迫した場面で使われるからだ。「すでに癌が全身に転移しており、なす術がなかった」。「少女はなす術を失って、まだ肌着を着ようともしていなかった。」(三島由紀夫、「潮騒」)。「いくらじだんだ踏んでもほどこす術はなかった。」(井上靖、「氷壁」)。『カラマーゾフの兄弟』のこの箇所はこのような緊迫した場面ではない。原訳のように、「・・・としか答えようがない」と訳すべきだ。
 【誤訳】「わたしがこんな言い方をするのは、残念ながら、そのことが前もって予想できるからだ」の「残念ながら」(с прискорбием)。
 【理由】「残念ながら」の使い方が間違い。「残念ながら」は済んでしまったことに対して使う。「残念:[済んでしまったあとで]ものたりなく心残りがあるようす」(『学研国語大辞典』)。「残念:[期待(希望)したように事が運ばなかったり、長続きがしなかったりして]物足りない様子があとまで残る様子だ。」(『新明解国語辞典』)。
 「残念ながら」は、これから起きる出来事や、前もって予想できる事柄には使わない。もちろん、「残念ながら、あなたのご希望には添えません」と言うことはできる。しかし、これも、何かすでに取り返しのつかないことが起きてしまったため、希望に添えないということ。従って、ここは原、江川、小沼訳のように、原文通り、「悲しいことだが」という風に訳さなければならない。
 【誤訳】「わたしに言わせると彼はたしかにすぐれた人物なのだが、そのことを読者にしっかり証明できるのか、じつのところきわめて心もとない。」の「わたしに言わせると」。
 【理由】原文は「私にとって」(для меня)。これと「わたしに言わせると」ではニュアンスがまったく異なる。
 たとえば、「私にとって彼女は悪魔だ」と「私に言わせると彼女は悪魔だ」。
 前者は、「他の人のことは知らない。しかし、私にとって彼女は悪魔だ」ということなのだが、後者は、「みなさんおっしゃるように、彼女は悪魔ではないのかもしれない。しかし、私に言わせれば、彼女は悪魔なのである」というニュアンスがある。
 従って、亀山訳の「わたしに言わせると彼はたしかにすぐれた人物なのだが」という言葉は、「みなさんおっしゃるように彼は特にすぐれたところなどない人物なのかもしれない。しかし、私に言わせると、彼はすぐれた人物なのである」という意味になる。これでは原文に新しい意味を付け加えることになる。やはり、「私にとって彼はすぐれた人物だ」と訳すのが原文に忠実。
 【誤訳】「わたしに言わせると彼はたしかにすぐれた人物なのだが、そのことを読者にしっかり証明できるのか、じつのところきわめて心もとない。」の「彼はたしかにすぐれた人物なのだ」(он примечателен)(原)。
 【理由】私が前回扱った文で亀山はアレクセイを「偉大ではない」(立派ではない)と訳しているのに、ここで「すぐれた人物」と訳すと、「立派ではないのにすぐれている」って、どういうこと?と読者は混乱する。「偉大ではない」という訳を、まず私の試訳のように訂正したあと、原文通り「彼は注目に値する」という風に訳すのが正しい。なぜなら、あとでも述べるように、この「作者の言葉」では「アレクセイが注目に値するか否か」ということが問題になっているからだ。亀山と同様、「すぐれた」と訳している原も、このような文脈に気づいていない。
 【不適訳】「わたしに言わせると彼はたしかにすぐれた人物なのだが、そのことを読者にしっかり証明できるのか、じつのところきわめて心もとない。」の「じつのところきわめて心もとない」(решительно сомневаюсь)。
 【理由】原文は「まったく疑わしい」というキッパリした言い回し。「じつのところきわめて心もとない」というのは意味がよく分からない。のみならず、変に気取った鳥肌が立ちそうな訳。太宰治の「斜陽」に出てくる「お母さま」みたい。百叩きの刑。
 【誤訳】「要するに彼は、たぶん実践家ではあっても、あいまいでつかみどころのない実践家なのである。」の「要するに」(Дело в том, что)。
 【理由】すでに森井・NN(「一読者による新訳『カラマーゾフの兄弟』の点検」、以下「森井・NN」と略記)が指摘済み。原訳でも「要するに」となっているが、そのあと「・・・が問題なのだ」と受けているので誤訳ではない。
 【誤訳】「要するに彼は、たぶん実践家ではあっても、あいまいでつかみどころのない実践家なのである。」の「あいまいでつかみどころのない実践家」(деятель неопределенный, не выяснившийся)。
 【理由】「実践家」という言葉はあるのだろうか。むろん、「理論家」という言葉はある。しかし、「理論」の反対語である「実践」から派生した「実践家」という言葉を、私はこれまで聞いたことがない。聞いたことのない言葉を使うわけにはゆかない。従って、アレクセイについては「社会活動家」という訳を当てたい。これは私が『カラマーゾフの兄弟』全体を読んだ上での判断だ。
 ところが、その社会活動家が「あいまいで」(亀山のみ)、「つかみどころのない」(原、小沼)人物なのだ。原文の"неопределенный, не выяснившийся"を直訳すれば、「はっきり定義できない、明らかになっていない」。これを「あいまいでつかみどころのない」と訳すのはいただけない。なぜなら、たとえばフョードルのようなタヌキ親父に対してそう言うのは分かるが、裏表のない好青年アレクセイに対して「あいまいでつかみどころのない」はないだろう。たとえば、亀山にしても「きみはあいまいでつかみどころのない男だね」と言われて嬉しいだろうか。真実を言い当てられてドキッとするかもしれないが、嬉しくはないだろう。なぜなら、それは相手を非難する言葉なのだから。従って、ここは「はっきりしない、これと明確に説明することができない」という風に訳しておくのがいいのではないか。
 【誤訳】「しかし、風変わりであったり変人であったりするというのは、たしかにそれで世間の注意を引くことはあっても、むしろ害になるほうが多い。とくに昨今の混乱をきわめる時代、だれもが個々のばらばらな部分をひとつにまとめ、何らかの普遍的な意義を探りあてようとやっきになっている時代はなおさらである。」
 【理由】すでにすでに森井・NNが指摘済み。いまそれとは別に私見を述べよう。原文の提示がどうしても必要な箇所なので、原文を掲げながら論じる。ロシア語を解さない方にも議論の大筋が分かって頂けるよう書くつもりだ。

Но страннось и чудачество скорее вредят, чем дают право на внимание, особенно когда все стремятся к тому, чтоб обединить частности и найти хоть какой-нибудь общий толк во всеобщей бестолочи.

 これまでの話の流れを整理しておこう。
 「作者の言葉」冒頭で、作者は、おずおずと、有名とは言えないアレクセイを主人公にしてしまいましたが、と読者に言う。ところが、読者の方が納得せず、どうしてそんな無名の人物を主人公にするのか、と、作者につめよる。まあ、百歩譲って、無名なら無名でもいい。そのアレクセイ・フョードロヴィッチとやらには何か人に注目されるようなところがあるのか、と読者。はい、あります。ありますけど、ちょっと説明がむつかしい、と作者。という風に、アレクセイが「注目に値するか否か」という点を中心に議論が展開してゆく。この箇所もその議論の一端。しかし、亀山の次の訳はこのような文脈を無視している。
 「しかし、風変わりであったり変人であったりするというのは、たしかにそれで世間の注意を引くことはあっても、むしろ害になるほうが多い」
 原文の“дают право на внимание“を亀山は「世間の注意を引く」と訳しているが、直訳すれば、「注目される権利を(世間から)与えられる」という意味。たとえば、歴史に残るような偉大な人物の場合、もうそれだけで世間から「注目される権利」を与えられている。ナポレオンなど有名人ではなく、注目されてなどいない、という人などいない。そういうことを言う人はよほどの奇人変人。ところが、そのような奇人変人が世間から「注目される権利」を与えられているかというと、これはかなり疑問。むしろ、「ああ、あいつは、ああいうけったいなやつや、ほっとこ、ほっとこ」(大阪弁の「けったい」は「変」、「ほっとこ」は「放っておこう」という意味)ということになりがち。つまり、”вредят”(害を与える)というのは、奇人・変人の“право на внимание“「注目される権利」に「害を与える」ということで、あまり注目されなくなるということ。つまり、「ほっとこ、ほっとこ」。
 まあ、日本ロシア文学会での私みたいなもんですな(お前はアレクセイか)。
 ということで、亀山訳の「世間の注意を引くことはあっても、むしろ害になるほうが多い」は「世間から注目されるより、むしろ、無視されるようになる」と訳さなければならない。
 さて、次の亀山訳。
 「とくに昨今の混乱をきわめる時代、だれもが個々のばらばらな部分をひとつにまとめ、何らかの普遍的な意義を探りあてようとやっきになっている時代はなおさらである。」
 この訳文を素直に読むと、誰でも、「とくに昨今の混乱をきわめる時代」と「だれもが個々のばらばらな部分をひとつにまとめ、何らかの普遍的な意義を探りあてようとやっきになっている時代」が同格関係にあると思う。しかし、両者は反対の内容。前者は「混乱をきわめる時代」であり、後者はその混乱を収め、ひとつにまとめようと「やっきになっている時代」だ。まったく逆の内容なので同格関係になりえない。で、憮然として、原文を見ると、「とくに、誰もがばらばらになった部分をまとめ、その全般的な混乱の中にせめて何かしら共有できるものを探し出そうとしている時代では」という風に書いてある。亀山先生、無茶苦茶でした。
 【不適訳】「そもそも変人というのは、多くの場合、社会の一部分にして孤立した現象にすぎない。」の「そもそも」。
 【理由】訳文は示さないが、原を除いて、亀山、江川、小沼の三氏とも、この文の"же"(対比を示す接続詞)の意味を理解していないように感じる。要するに、誰もが個々ばらばらなものを結びつけ、社会全体に広がる混乱の中から共有できるものを探し出そうとしている。それなのに、変人ときたら・・・という風に、社会全体の流れと変人のあり方が対比されている。もし"же"を「そもそも」と訳しているのなら誤訳。

【試訳2】
 最後の問いがいちばん答えにくい。と、いうのも、そのような問いには、「たぶん、小説を読めばお分かりになりますよ」と答えるしかないからだ。ふむ、しかし、読んで頂いても分かってもらえなかったら、わがアレクセイ・フョードロヴィッチが注目に値する人物であるということに賛成して頂けなかったら・・・こんな弱音を吐くのは、悲しいかな、あらかじめそうと予測がつくからだ。私にとって彼が注目に値する人物であることに間違いはない。しかし、諸君に納得してもらえるかどうかということになると、まったく自信がない。というのも、彼は社会活動家なのだが、これがまた、何ともはや、これと明確に説明できないような漠とした社会活動家であるからだ。もちろん、こういう時代だ。人間に明確さを要求するほうがおかしいのだ。もっとも、ひとつ、断言してもよかろうと思うことがある。それは彼が奇妙な人間だということだ。変人と言ってもいいだろう。しかし、ある人物が奇人であるとか変人であるとかいうとき、そういう人物は世間から注目されるより、むしろ、無視されるようになるものだ。特に、誰もがばらばらになった部分をまとめ、その全般的な混乱の中にせめて何かしら共有できるものを探し出そうとしている時代にはそうなる。変人というものは、その大多数が、世間から孤立した部分そのものなのだ。そうだろう、諸君。

【亀山訳2】
 なかでも、最後の問いがもっとも致命的である。というのは、その問いに対して、わたしは次のように答えるしかすべがないからだ。「小説をお読みになれば、おのずからわかることですよ」と──。
 しかし、読み終わったあとでもやはり答えが見つからない、主人公アレクセイ・カラマーゾフの優れた面に同意していただけないとしたら、どうするか。わたしがこんな言い方をするのは、残念ながら、そのことが前もって予想できるからだ。わたしに言わせると彼はたしかにすぐれた人物なのだが、そのことを読者にしっかり証明できるのか、じつのところきわめて心もとない。要するに彼は、たぶん実践家ではあっても、あいまいでつかみどころのない実践家なのである。
 もっとも今のご時世、人々に明快さを求めるほうが、かえっておかしいというべきなのだろう。ただひとつ、おそらくかなり確実な点といえば、彼が、変人といってもよいくらい風変わりな男だということである。しかし、風変わりであったり変人であったりするというのは、たしかにそれで世間の注意を引くことはあっても、むしろ害になるほうが多い。とくに昨今の混乱をきわめる時代、だれもが個々のばらばらな部分をひとつにまとめ、何らかの普遍的な意義を探りあてようとやっきになっている時代はなおさらである。そもそも変人というのは、多くの場合、社会の一部分にして孤立した現象にすぎない。そうではないか?