段落問題

 いやはや、どこに落とし穴があるか分からない。これだから人の翻訳をあれこれ批判するのはこわい。批判しているつもりが、自分の無知蒙昧ををさらけ出しているんだな。まあ、しかたないか。気を取り直して進もう。
 『カラマーゾフの兄弟』のエピグラフのあとは「著者より」の部分になる。さて、ここを読み始めて、これまで『カラマーゾフの兄弟』を他の訳者のもので読んできた誰もが「あれっ」と思う。それは、段落が妙に細かく区切ってあることだ。原文ではそうなっていない。ピョートル・イクオービッチ・カメヤマが、読者が読みやすいようにサービスしているんだな。こんなこと、許されるのだろうか。段落の区切り方にも作者の気持が表れているんじゃないの。私が作者なら、そんなことはされたくない。だって、段落を区切るとき、細心の注意を払うからね。
 たとえば、餃子を食べるとき、皮と実をばらばらにして食べる人はいる?たとえば、巻き寿司を食べるとき、カンピョーと卵焼きと椎茸とご飯と海苔をばらばらにして食べる人いる?そんなことしないよね。餃子も巻き寿司も口に入る大きさなら、ぱくっと一口で食べるよね。そうしないと、味のハーモニーが味わえない。小説の段落も同じだ。小説だけじゃなく、こういう雑文の場合だって同じだ。これでもけっこう段落分けには気をつかっているつもりだ。段落内の文章はいちおうそれでひとつの「かたまり」だからね。ばらばらにしてしまっては、それこそ味もそっけもなくなってしまう。
 ピョートル・イクオービッチ、こういうことは自分で小説を書いてみたらすぐ分かるよ。安易な気持で段落を分けているのじゃない。その「かたまり」にはそれぞれ意味があるんだな。ドストエフスキーだって段落分けには苦心したと思うよ。その努力をきみは台無しにしているよ。
 そんなこと言ったって、「ドストエフスキー?えー?むっつかしいー」という読者が多いんじゃないか。そうきみは言うのかい?はっきり言うけどね(こういう使い方が正しい)、そんなアホな読者は放っておくことだ。そういう読者はぽんぽこ段落を細切れにしたって、どうせ読みはしない。そういう読者は生まれ変わってドロ亀とか蛇になればいいのさ。ドロ亀はやめてほしい。あ、そうか、ごめん。