一粒の麦

 みすず書房宛の抗議文にも書いたが、私は亀山郁夫に何の恨みもない。というより、昔からの友人だ。ずいぶん以前、亀山が天理大学に勤務していた頃、そして佐藤優同志社の大学院生だった頃、佐藤の先生だった渡辺雅司と四人で毎週のように同志社周辺を徘徊し、げろを吐きながら飲んだくれていた。そして、佐藤が外務省に就職が決まったあと、渡辺、亀山の三人で佐藤の結婚式に出た。驚いたことに、私がロシア語を教えた女性と佐藤は結婚したのである。外務省の同僚や上司もお祝いに駆けつけてくれた。とても気持の良い結婚式だった。
 その後、渡辺と亀山はいずれも東京外語に行ったので、亀山との付き合いはそこで途絶えた。渡辺とはときどき神戸で飲んでいたが。
 ちなみに、佐藤からは毎年モスクワから年賀状が来ていた。しかし、昭和天皇が病に倒れたとき、私が年賀状に「天皇が病気になって、TVなんかも、みんなおとなしくしていて、つまらんな」というようなことを書いて出すと、佐藤からぷっつり年賀状が来なくなった。外務省の役人は国の掟を守るんだな、大変だな、と思って、手紙も上司に検閲されているんだろうかと思い、佐藤に悪いことをしたな、と反省した。その後、佐藤が逮捕されたとき、渡辺に会い、「佐藤に、がんばれ、と伝えてくれ」と言った。まっすぐな男だが、佐藤は人に求めすぎるところがあるから、きっと回りの人間に疎まれたんだろうと思った。当たっているかどうか。
 つまらないことを書いたが、いずれにせよ、私は亀山に何の悪意ももっていない。私とはまったく異なるタイプの人間なので、そもそも接点がない。私と摩擦を起こしようがない。
 だから、こんな事態になって、私は困っている。渡辺も佐藤も困っているだろう。しかし、これだけは仕方がない。ドストエフスキー研究者としての義務は果たさなければならない。
 さて、これから、ピョートル・ヴェルホーヴェンスキーの生まれ変わりである亀山郁夫の訳した『カラマーゾフの兄弟』を点検してゆく。NNと木下豊房、さらに森井友人の点検と重なるところがあるかもしれないが、それはそれで私の解釈なのでご容赦願いたい。また、読んで楽しい(亀山は楽しくなかろうが)点検にしたいので、下らないことも書くだろう。これもご容赦を。

 まず、『カラマーゾフの兄弟』のエピグラフ

 亀山郁夫訳:はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。(ヨハネ福音書、十二章二十三節)

 これは『カラマーゾフの兄弟』全体を貫く最も重要な言葉である。この言葉が身体に入らなければ『カラマーゾフの兄弟』は分からない。マルケル、ゾシマ、アリョーシャの身体にはこの言葉が入っている。
 さて、このピョートル=亀山訳を読んで、私は「あれ、どこか変だな」と思った。どこが変なのか。亀山の先生である原卓也の訳と比べてみよう。

 原卓也訳:よくよくあなたがたに言っておく。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。(ヨハネによる福音書、十二章二十三節)

 これは1955年版日本聖書協会訳の聖書と同じだが、これでいいと思う。「よくよくあなたがたに言っておく」の方がいい。亀山の「はっきり言っておく」は困る。ロシア語聖書をそのまま訳すと、原訳のようになる。ロシア語を読める人は少ないと思うので、どうしても必要なとき以外、原文の引用はしない。私を信用してほしい。
 なぜ「はっきり言っておく」ではだめなのか。そりゃ、ここではイエスが弟子たちに、これは大事なことだから決して忘れるな、と、切々と説いている場面だからだ。だから「よくよく」なのであり、「はっきり」では困る。「はっきり」はこんな風に使わない。
 「あのね、はっきり言うけどね、わたし、あんたのことなんか大嫌いよ」
 「何を言う。お前は私の妻だろう」
 「はっきり言うけど、わたし、この人が好きなの」
 「なに、おい、そこの色男、はっきり言っておく。一歩も、私の家に足を踏み入れるな。妻の尻をさわるな」
 てな感じで、ここの「はっきり」を「よくよく」に入れ替えることはできない。これはまったく違った言葉なのだ。「はっきり言っておく」という言葉には、警告したり、誰かを非難するニュアンスが付きまとう。だから、亀山訳だと、イエスが阿呆な弟子たちを叱りとばしているような感じになる。イエスさんは叱ってはいない。じゅんじゅんと弟子に説いているだけだ。
 なお、「死ねば、多くの実を結ぶ」という訳も、死んだ瞬間、パッと多くの実を結ぶ感じで変だ。花咲爺さんじゃあるまいし。やはり、原訳の「もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる」の方がロシア語原文に忠実だし、自然だ。
 ピョートル・イクオービッチ、最初から聖書をこんな風に訳すのでは、先が思いやられるな、と思って読み始めると、案の定そうだった。これから先はもっと面白いですよ。皆さん、読んでね。

                                        • -

 と、ここまで書いて、ブログに掲載したところ、森井友人氏から懇切丁寧なメールが来て、亀山の「一粒の麦」の訳は新共同訳聖書の引き写しですよ、と教えてもらった。恥をかくのは何でもないが、間違ったことを言うのはよくない。ご指摘に深く感謝します。
 森井友人氏はすでに亀山の新共同訳聖書からの引き写しの問題点について「一読者による点検」で指摘している(http://www.ne.jp/asahi/dost/jds/dost121a.htm)(亀山訳、第1巻129頁5行目の「慰めを拒む」という訳語について)。但し、今回の場合はこれとは事情が違うので、ここだけで亀山を鈍感ということはできないのではないか、というのが森井氏の忠告だった。たしかにその通り。鈍感なのは私でした。ごめんなさい。
 ちなみに、原卓也江川卓とも、この箇所を『カラマーゾフの兄弟』のロシア語原文に忠実に訳している。それに対して、亀山は『カラマーゾフの兄弟』の原文を無視して、新共同訳聖書をそのまま写している。無視しちゃだめだろうが。しかし、新共同訳聖書とロシア語原文の違いなど、亀山にとってはどうでもいいのだろうな。まあ、そこが鈍感と言えば鈍感、と鈍感な私が言うのも変ですが。
 しかし、それにしても、新共同訳聖書のこの箇所の訳は変だな。ギリシャ語原典に当たって調べてみよう。これは亀山の問題とは関係ないが。

                                        • -

 と、書いたあと、通勤電車の中で、手持ちのThe Greek New Testament(United Bible Societies, 1975)の「ヨハネ福音書、12:24」を見た。やはり、『カラマーゾフの兄弟』のその箇所はギリシア語聖書の忠実な訳だった。ギリシャ語聖書での「アーメン、アーメン、汝らに告ぐ」が「Истинно, истинно говорю вам」(「まことにまことに汝らに告ぐ」(文語訳聖書)あるいは「よくよくあなたがたに言っておく」(1955年版日本聖書協会訳聖書))となっているだけ。「アーメン、アーメン」はイエスの口癖で、「ほんとうに、ほんとうに」というような意味で使われている、と、たとえば、織田昭の『新約聖書ギリシャ語小辞典』には説明がある。要するに、「アーメン、アーメン、汝らに告ぐ」を大阪弁に訳せば、「あのなあ、よう覚えとってや、わいがこれから言うことはほんまに大事なことやからな」というようなところか。
 ところが、すでに述べたように、森井氏によれば、亀山が引き写している新共同訳聖書でここは「はっきり言っておく」になっているという。残念ながら、私は新共同訳聖書を持っていない。私の持っている共同訳聖書(1978)では、その箇所が「はっきり言っておきたい」となっている。これも変だが、この訳の方がまだしも新共同訳聖書より少しは原文に近いと思う。「はっきり言っておく」だと、先に述べたように、やはり警告の意味が強くなり、原文から離れてしまうように感じる。しかし、もう素人談義はやめよう。怪我のもとだ。もう私はずいぶん間違いを犯してしまったかもしれないが、ご容赦下さい。
 結論。いずれにせよ、亀山は新共同訳聖書をそのまま引き写したりせず、『カラマーゾフの兄弟』原文にあるロシア語聖書からのエピグラフをそのまま訳せば何の問題もなかったのだ。なぜなら、ドストエフスキーはそのロシア語聖書を読んでいたのだから。