亀山郁夫に会った

 妻が亡くなったあと、何もする気になれず、居間のソファにぼんやり座ったままテレビを眺めている日々が続いた。夜も眠れず、身体のあちこちが痛い。とくに胃が痛い。それで医者に行って、いろいろ調べたが、どこも悪くない。そこで、医者に、妻を亡くして云々というと、医者が即座に「ああ、鬱病かもしれませんね。精神科を紹介しましょうか」という。この野郎、紋切り型を言いやがって、と思ったが、それはそうだろうと思いながら、しかし、その医者の勧めを断った。そして、ともかくずっと書こうと思っていた本(ドストエフスキー論)でも書いてみようと机に向かったが、地の底に吸い込まれるような気持になって、何もできない。江藤淳のこととかククルククパロマという歌とかのことを思って、おれもああなるのか、と思った。しかし、これは何とかしなければと思い、人に会おうと思った。それで、インターネットを調べると、奈良ギター合奏団というのが団員を募集していたので、入ることにした。入って、楽譜をもらったが、やはり何も弾く気になれない。みんなが弾いているのをぼんやり聞いているだけである。あるとき、指揮をしている人から「どうしたのですか?」と尋ねられたけれど、自分でもよく分からないので、これこれしかじかと説明することができない。そういう状態が半年以上続いた。毎年十月に行われる発表会が少しずつ近づいてくる。焦るけれど、どうしようもない。家で楽譜のおさらいをする気にもなれない。しかし、暑い暑い夏がようやく終わりかけた頃、なぜか、ギターを家で練習する気になって、少し予習して合奏団の練習に出るようになった。そして、昨日、その発表会が無事(というか、私にとっては何とか)終わった。それで、団員の人たちと打ち上げをし、そのあと、お茶でも飲もうと、近鉄奈良駅のあたりの人混みの中を歩いていると、目の前に亀山郁夫が現れた。酒を飲み過ぎたかと思ったが、本物の亀山である。天理大学からの帰りだという。いろいろ話をしながら、握手を何度かした。旧くからの友人なので、いろいろあったが、やはり懐かしかった。また会おうと約束して別れた。ということで、なにか元気の出た昨日の出来事だった。私は人間と人間の感情の行き違いなどは、水の上にうかぶゴミのようなものだと思っている。つまらないことだ。

ラッコ

きのうプールで泳いでいると、おじいさん(私より少し上のおじいさん)が、ビート板(バタ足の練習のとき使う楕円形の板)をお腹の上に乗せて、上を向いてばたばた泳いでいた。それで、あれは何だったか、と、思い出そうとしたが思い出せない。そこで、プールの脇で年寄りが溺死しないか監視していた若い指導員の男性に、「えーと、ほら、あのお腹の上に、こう食べ物を乗せて、バチーンと割って食べる動物は何という名前だったか」と、尋ねると、よく聞こえなかったらしく、「あ、ぼくですか?ぼくの名前は・・・です」と、答えたので、「いや、そうではなく、あの人のように」と、その老人を指さしながら、「お腹の上に・・・」と、言うと最後まで聞かず、「あ、ラッコです」と答えてくれた。それで、そのおじいさんに「まるでラッコですね」と言うと、「なるほど」と答えてくれた。年を取ると、毛細血管とか末梢神経がダメになると言うが、私の頭も中の毛細血管もイカレてきたのに違いない。神経の連絡がわるい。たぶんこのためだろう、年寄りの文章はすぐ分かる。無神経なのである。この神経は末梢神経のことだろう。恐ろしい。

ハゲタカ

 妻は四年前、最初の病院(A病院としておこう)で、余命一週間と宣告されたのち、それが誤診であるということが分かり、しばらく治療を受けていたが、A病院では手に負えないということで、別の病院(B病院としておこう)に移った。妻の病状について回想するつもりはない。それは冷凍保存のままにしておく。たぶん、忘れてしまうだろう。
 ただ、忘れられないことがあったので、それについてのみ記しておこう。
 A病院で妻が余命一週間と宣告された直後、私が病院から帰宅し、妻の下着の洗濯などをしていると、インターホンが鳴った。インターホンのカメラを見ると、見知らぬ女性が映っていた。私は放置した。翌日、同じ女性が来て、同じようにインターホンを鳴らした。また、私は無視した。その翌日も同じ。何日続いただろうか。それからしばらくすると、別の女性が二人でやってきて、インターホンを鳴らした。私はこれも無視した。彼女たちがやってきたのは、二度ほどだったと思う。
 それから、妻はB病院に移り、医者から、早ければ余命半年と宣告された(妻はそれから三年近く生きたのだが)。

 妻がB病院に移ったあと、最初に、ネクタイを締めた背広姿の初老の男性が来て、インターホンを鳴らした。三度ほど来たと記憶している。その男性が来なくなると、別の人々が来るようになった。そういう具合で、妻が死を宣告されてから、一週間に一回ぐらいは誰かがインターホンを鳴らすようになった。私はずっと家にいたわけではないので、本当の回数は分からないのだが。
 しかし、妻が亡くなると、そういう人たちはぱったり来なくなった。まるでハゲタカだなと私は思った。

冷凍保存

 ずいぶん久しぶりのブログだ。これから思い出したら書くことにしよう。
 昨年の九月、舌癌の手術をした。幸い、初期のもので、すぐ退院できた。しかし、ロシア語が喋りにくくなった。巻き舌のRの音が出ない。日本人の半分ぐらいは巻き舌のRの音が出ないそうだから、まあ、いいか。
 私が手術をしたあと、十二月に、五十年近く寝食を共にしてきた妻が亡くなった。三年余り前から難病のため、入退院を繰り返していたが、とうとう亡くなった。事情があって、私ひとりで看病をしていた。
 自分を看病しながら妻を看病するのは忙しかった。悲しむヒマもなかった。
 先日、テレビを見ていると、伊丹十三の奥さんの宮本信子が夫の死を冷凍保存していると言っていた。誰しも同じことを考えるものだと思った。
 私は死ぬ直前になったら、妻の死を解凍しよう。しかし、解凍するヒマがあるだろうか。

翁長さんの死

翁長さんは理性では日米安保条約はしかたがないと思っていたが、無意識の部分で日本の本土の人間を許すことができなかったということだろう。このため、途中で態度を変えた。これは韓国の人々にも言えることだ。彼らも従軍慰安婦問題で日本との約束を反故にした。人間は無意識の部分の方が圧倒的に大きい。だから、いくら理性を持てと言っても無駄なのだ。韓国・朝鮮の人々と同様、沖縄の人々も日本人を永遠に恨み続ける。彼らが屈辱を晴らすのにはそれしか方法はない。政治的にこの争いを収束させるのには双方の妥協しかないのだ。
http://www.geocities.jp/oohira181/onaga_okinawa.htm

私生児

きのうカミさんを病院に送っていった帰り、図書館で借りた高見恭子が朗読する高見順の「私生児」を車の中で聞いた。胸に迫って涙がぼろぼろこぼれてきたので、あわてて車を停めて泣いた。「私生児」というのは高見の私小説である。高見恭子は高見の娘である。こんな悲しい小説をよく読めたものだ。