古井由吉

 ときどき立ち寄っていた近鉄奈良駅前の書店に、あるとき古井由吉の単行本が並んでいた。不思議なことをするものだと思って、それでも、何冊か、買った。持ち合わせのお金がなかったので、残りはあとで買おうと思って、次に行くと、古井の棚そのものがなくなり、漫画本の棚になっていた。店の人に、古井はどこに行ったのか、と、つい詰問調で問い詰めると、変な顔をされた。そんなことを訊くわたしが変なのだ。店の方針が変わったのか、それとも本屋の持主が変わったのか。そこはいつのまにか、若者向けのケバケバしい表紙の本の並ぶ書店になっていた。
 そのうち、古井由吉が亡くなった。そうか、亡くなる前に在庫を処分しようということだったのか。わたしはその店で売れ残っていた(誰も買わなかったのだろう)古井の本をすべて買った。
 そして、しばらくして、『書く、読む、生きる』(草思社、2020)を読み始めた。古井を読むのは何十年ぶりだろう。学生の頃、「杳子」を読んだきりだ。その読後の印象は異様なもので、その異様さを味わいたくて、続けて何冊か読んだ記憶があるが、いずれも期待を満たされず、途中で放り出していた。『書く、読む、生きる』でも「杳子」の調子は少し残っていて、それは「擬滞する時間」という漱石論に出ていた。が、淡いものだった。しかし、老年のわたしには、その淡泊さが心地良く、繰り返し読んでいる。あのねっとりと蛇のように巻き付いてくるような文体が蛇の抜け殻のようなカラリとした文体になっていた。