非政治的人間

佐高:(略)私は今回、公明党を「裏切り常習犯」と口をきわめて批判しました。しかし、創価学会には大衆のエネルギーが充満していて、それはもちろんファシズムに向かうかもしれないけど、逆の方向にいく可能性もあるわけですよね。
辺見:ああ、それじゃ佐藤優と同じですよ。
佐高:では辺見さんは創価学会潜在的なエネルギーを切り捨てますか。
辺見:ぼくは切りますね。もう十分でしょう。「創価学会潜在的なエネルギー」なんて、政治屋が考えればいいのであって、ぼくは関心がない。(中略)佐藤優は「創価学会の皆さん、よく頑張った。あなた方がいなければ、とんでもない集団的自衛権になっていました」ということを書きました。これがまさに二〇年代、三〇年代にナチス政権が取り込んだ情況と基本的に同じだと、ぼくは思います。(『絶望という抵抗』、辺見庸佐高信、株式会社金曜日、2014、pp.161-163)

 トーマス・マンに『非政治的人間の考察』という著作がある。私たちは「政治」から出発してはいけないのだ。「人間」そのものから出発しなければいけない。そうでなければ、すべてが暴力に終わる。この意味で佐高は政治的人間であり、辺見は非政治的人間だ。非政治的人間が政治にかかわるときには、絶望しかない。なぜなら、そこには、人間を個としてではなく群れとして捉える人間しかいないからだ。人間を群れとしか捉えられない政治的人間の行き着く先はスターリンヒトラーなのである。私たちは非政治的人間でなければいけない。これはもちろん政治の現状に目をつむるということを意味しない。