アルツハイマー

 『作家が過去を失うとき』というのは、アルツハイマーになったアイリス・マードックとの生活を記した夫であるジョン・ベイリーの記録である。読んでいると、なぜか、こころがやすらぐ。泣きそうになるときもある。昔、ジョン・ベイリーの『トルストイと小説』という評論を読んだことがあるが、こんなに繊細な人だとは思わなかった。わたしは学生の頃からアイリス・マードックの愛読者だったので、この本も読み始めたのだが、最近、寝る前にかならず読むようになった。

ジェイン・オースティンの時代の慈悲深い聖職者シドニー・スミス師は、絶望にとりつかれて救いを求めにきた信者たちに、「目の前のことだけ見つめなさい――夕食やお茶の時間より先のことは考えないように」と励ました。不安でおろおろし始めると、これしかないとばかりに彼女にこれを引用してみせたものだ。今はお呪(まじない)か冗談のようにこれを繰り返し、「目の前のことだけ」というときおどけたしぐさをすると、彼女はきまって笑い声をあげる。理解してもらうまでにはいかないが、ともあれにっこりしてくれる。(『作家が過去を失うとき――アイリスとの別れ:1』(ジョン・ベイリー、小沢瑞穂訳、朝日新聞社、2002、p.43)