最後の忠臣蔵

 インフルエンザに罹ってしまった。身体中が痛くて何をする気にもならないので、BSから録画しておいた映画を見ながら病が過ぎるのを待っている。私はあまりアメリカ映画が好きではなく、好んでみるのは英国、イタリア、フランスのものが多い。日本映画もいいが、あまりにも身近なゆえか、見ていて苦しくなるものが多いので敬遠している。
 私の勝手な言い分だが、だめな作品とだめでない作品を分けるのは、わざとらしいかどうか、ということだ。これは文学作品を評価するときの基準と同じで、映画にしろ文学作品にしろ、人工的な制作物なので、わざとらしいところが必ずある。そのわざとらしいところをいかに消しているか、というところにその作品の価値がある。
 この基準でいくと、村上春樹の作品は「ノルウェイの森」以前は良く、それ以降は良くない。また、「デルス・ウザーラ」を除く黒澤明の全作品や寅さんシリーズを除く山田洋次の全作品は良くない。なぜ寅さんシリーズが良いのかといえば、それは、わざとらしい脚本にもかかわらず、渥美清の天真爛漫な演技がそのわざとらしさを消しているからだ。黒澤映画の三船敏郎にも渥美と同じような感じをもつが、黒澤のわざとらしさは徹底的で、三船はその黒澤の呪縛から逃れることができなかった。
 ということで、インフルエンザの熱に浮かされてずいぶんえらそうなことを書いてしまったが、村上、黒澤、山田を熱愛するがゆえのないものねだりだと思ってほしい。
 この病中に見た映画でいちばん記憶に残ったのは私のいちばん嫌いなはずのアメリカ映画(「イングリッシュ・ペイシェント」)と、敬遠しているはずの日本映画(「最後の忠臣蔵」)だった。前者は映画が終わるのが惜しくなり、途中で何度も止め、まだ見終わっていない。見終わらなくても、傑作だということが分かる。そういう映画だ。
 後者の「最後の忠臣蔵」は最後まで見ないと傑作だということが分からない。もちろん、途中で傑作の予感はするのだけれど、不安は残る。しかし、その不安も、映画に挿入される文楽曽根崎心中)によって打ち消される。そして、映画はギリシャ悲劇を思わせるような崇高さのうちに終わる。
 ここで私がいう悲劇とは、運命に抗うことができない個人の存在としての悲しさを描いた作品のことだ。近松曽根崎心中もそういう崇高な悲劇だった。人間は自分に嘘をついては生きてゆけない。また、同時に、嘘をつかなければ生きてゆけない。だから自分に嘘をついている人間は自分を抹殺し大儀(その人間にとっての常識あるいは良識)に生きるほかはない。大石の隠し子である可音を育てた瀬尾孫左衛門がそうだった。
 可音を人として女性として愛した孫左衛門は、可音の誘いに応じることができず、彼女と性愛関係に入ることができない。そんなことをすれば大石内蔵助の命(めい)にそむくことになる。このため、あたかも侍の大義を貫いたかのように装い、自死を選ぶ。映画を見終わると、運命に抗うことができない人間の悲しさがいつまでも余韻として残る。それは、この悲しさを私たちのそれぞれが分かち持つからだ。(2014/12/31、訂正)