落合恵子

 最近、朝日新聞が朝刊・夕刊とも良くなってきた。相変わらず、朝日特有の左翼病な記事も多いが、新聞全体のバランスが良くなり公平になってきた。編集者が変わったのだろうか。金原ひとみの連載小説やこの落合恵子へのインタビューも読ませる。

人生の贈りもの わたしの半生

              作家 落合恵子(71) 第二回

■「差別とは何か」気づかされた幼い日

 ――敗戦の年、当時22歳のお母さんは、未婚で落合さんを生みました。

 母は小学校入学前の私を連れて、宇都宮の実家から上京しました。「ててなしっ子」と呼ばれ始めた私への差別を避けるためでした。

 母は4人姉妹の一番上。7歳の時に父親が病死すると「小さいお母さん」として妹たちの面倒をみていた。そんな期待の長女が、周囲の反対を押し切って「一人で産みます」と宣言して。親戚から「親不孝」「恥知らず」と言われたようです。

 上京して最初に住んだのは東中野の小さなアパート。夕方、母が仕事から戻るまで、私は同じ階のお姉さんたちに可愛がられました。「おやつだよ」とふかしたサツマイモをもらったり、「お母さんが帰ったら元気に迎えるんだよ!」と声をかけられたり。言葉はちょっと雑でも優しく、私が悪いことをすると真剣に叱ってくれた。皆一人暮らしで、夕暮れに、着物姿や、ハイヒールの入った布袋を持って出勤していきました。

 ――「水商売」の女性たちだったんですね。

 ひとりのお姉さんの部屋によく遊びに来ていた米国人の男性が突然来なくなった。今思えば朝鮮戦争のころ。そのカップルと3人で撮った写真を祖母が見て、「こういうものは出しておくな」と注意されました。

 戦前の女性は「早くお嫁に」と教育され、戦争ですべてを失い、働ける場所は限られていた。祖母も、娘である母を通して差別を痛感していたはず。でも焼け跡が残っていた時期、あのアパートの住人をどこかで差別し、「自分たちは違う」とする空気があって、それを祖母は恐れていたのかもしれません。

 ――お母さんの仕事は?

 小さな会社で事務員をしていたのですが、夜も働くようになりました。夕食後、長靴とゴムの前掛けを包んだ新聞紙を手に出ていく。それがビル掃除と知った私は友人に知られたくなくて「掃除の仕事をやめて」と頼みました。すると夜になってビルでの作業につき合わされ、「事務の仕事には何も言わず、なぜこちらはやめろというのか。ちゃんと説明しなさい」と。私は答えられませんでした。

 人の上に人を作らない社会を望みながら、上にも下にも人は人を作りたがる。そうした意識が私の中にもあるのだと、子ども時代に気づかされました。差別はなぜいけないのか、ごく自然に知ることができました。母に感謝しています。

 ――その後の人生に影響も?

 私が30代のころ、平和の集いで話をして控室に戻ると、最前列で聴いていた白髪の女性が訪ねてきた。アパートの向かいの部屋にいた芸者さんでした。「あなたのお母さんは、もっとお金になる仕事があるのに事務や掃除をやめなかった。私たちは『馬鹿だね』と笑いながら、あれも一つの生き方だと認めてたんだよ」と泣かれたんです。そして、あのアパートにいたことを明かせば損をすると。

 それが小説「夏草の女たち」(1984年出版)を書くきっかけになったんです。彼女たちを「社会に対して隠さないし、お姉さんたちを忘れない」という私の答えでした。

 (聞き手・高橋美佐子:朝日新聞12月13日、夕刊)