顔にはすべてが出る。自分では隠しているつもりでも、他人には全部分かってしまう。だから、自分を飾るのは無意味なのである。

 ・・・テレビの画面には、着陸した特別機にタラップが架けられ、坊主頭の小野田寛郎少尉が縦縞の水色の背広を着て、扉口に出てきた。その顔を見たとき、私は不意に、白昼に幽霊を見たような気がして、背筋が寒くなった。その顔は正に、嘗ての日の、栄誉ある帝国陸軍将校の顔であった。その顔が軍服を被らず、襟章のついた軍服を着ていず、軍刀を提げていないのが、一瞬奇異な感じがするほどであった。顔というもののなんという不思議さ、なんという恐ろしさ。上官の命令なしには任務を放棄することはできないと、頑なに呼び掛けを拒んで密林に潜み続けたというこの人の言い条を、私はそれまで半信半疑でいたが、この顔を見て、私はそれを信じた。(洲之内徹、『きまぐれ美術館』、新潮社、昭和53年、pp.54-55)

 ちなみに、このあと洲之内徹はある女優の悪口を書くのだが、これは高峰三枝子のことだろう。高峰三枝子というと、私は、自分は若い頃、高峰三枝子に誘惑されたと無邪気に書いていた石原慎太郎を思い出してしまう。
 洲之内が書いている高峰三枝子のこのテレビ番組のこの場面は私にもなぜか記憶がある。
 人間、合わないことをやると、こういうことになるなあ、無理に喋るからこうなるんだろうなあ、と、私は高峰三枝子を見ながら同情したのを覚えている。

 翌朝、所用で新潟市に出るという仁瓶さんが、私を新潟駅まで送ってやろうと言い、私は帳場の囲炉裡の傍で、車の支度ができるのを待っていた。すると、帳場のテレビに、また小野田さんのことが映っていた。
 もっとも、こんどは小野田さん本人は出て来ない。小野田さんとルバング島の密林の中で出会い、小野田さんの帰還の端緒を作った鈴木という青年の、そのお母さんという人がゲストで出ていて、一方、戦前から有名な映画俳優がその人と対談しながら、いろいろとヒントを与えられて、相手が誰か言い当てるという、そういう番組であった。それが当たると鈴木青年が呼びこまれて登場し、顎の先に特徴的な黒子のあるその古いスター女優は、こんどは鈴木青年と話し始めたが、女優が青年に、
 「あたしも去年、行こうかと思ったんですよ、小野田さんは私の映画を見ているはずだから、その私が呼び掛ければ、きっと出てきてくれるだろうと思って」
 という意味のことを臆面もなく喋りだすのを聞いて、私はまた、このバカ女、と思った。もっとも、このバカは、
 「洲之内さんは戦争をどう思われますか」
 というあのバカよりは、愛嬌があるだけましかもしれない。長年スターの座に慣れたこの美人女優は、小野田寛郎元陸軍少尉と雖も男性である以上、自分には、彼に投降を命じた元上官以上の権威が具わっているものと、無邪気に信じて疑っていないようであった。