「最初の人間」

今週の水曜日、四条の京都シネマで「白夜」(ドストエフスキー原作、ロベール・ブレッソン監督)と「最初の人間」(カミュ原作、ジャンニ・アメリオ監督)を続けて(午後1時15分から5時まで)見ることができた。カミュドストエフスキーの弟子を自認しているので、この組み合わせは偶然だろうが、不思議な気持になった。
 ブレッソンは、ずいぶん昔、三十歳をすぎた頃、神戸元町の元映だったか(それとも別の映画館だったか)、これもドストエフスキーの「おとなしい女」を映画化したのを見て、その無神論的に脱色された演出に落胆した覚えがある。しかし、今週見た「白夜」は少し面白かった。画面が小さく、タイトルの文字も小さかったが、映画の題名は「白夜」ではなく、たしか「ある夢想家の四つの夜」となっていたように思う。
 そのタイトルの意味は映画を見終わって分かった。説明は省くが、ドストエフスキーの「白夜」ではペテルブルクの白夜のもつ幻想的な力が大きな役割を果たしている。白夜がなければ、登場する二人の男女のあいだに、ある「感情」は生まれない。白夜そのものが小説のプロット(出来事の因果関係をつくる原因)になっている。したがって、少し大げさな言い方をすれば、小説の主人公は登場する二人の男女であると同時にペテルブルクの「白夜」なのである。
 一方、ブレッソンの映画はパリを舞台にしているので、白夜のないパリで、白夜はプロットになりえない。このため映画では原作のもつ「白夜」の幻想性が切り捨てられている。そして、主人公である夢想家の若い画家が、ある女性(恋人が米国から帰還するのを待っている若い女性)に向ける一方的な恋愛感情が描かれる。また、七十年代の若者のヒッピー風の生活が描かれたり、差別されたロマ(だと思う)たちの悲しい歌やギターの演奏が強引に挿入される。こういう原作とはかけ離れた細部が私に昔を思い出させ、少し面白かった。しかし、それ以外はいつも変わらぬ若者の愚かさを描いているだけで、昔の自分を見るようで恥ずかしかった。
 続けて上映された「最初の人間」は素晴らしい作品だった。原作の「最初の人間」はカミュが自動車事故で亡くなったとき発見された彼の鞄の中にあった草稿で、草稿なので、つじつまの合わないところもあり、あまり面白くない。これはカミュの自伝的作品と目されるもので、以前読んだとき、カミュ自身と思われる主人公の文盲の両親や聾唖者の叔父を描いた箇所に心を打たれた記憶がある。
 その以前読んだ本を探し出してみたところ、次の箇所が鉛筆で囲んであった。

貧者の記憶というものはもうそれだけで裕福な者の記憶ほど充実していない。なぜなら貧者は滅多に生活している場所を離れないので空間における指標が少ないからだし、また一様で、灰色の生活の時間の中にも指標が少ないからである。もちろんこの上なく確実だと言えるような心の琴線に触れる記憶もあるのだが、心が苦しみや労働ですり減ってしまうので、疲労の重みの下で、それもすぐに忘れられてしまうのだ。失われた時が蘇るのは裕福な者のうちでしかない。貧者にとっては、失われた時はただ死に向かう道の漠とした道標だけである。それに、首尾よく耐えていくためには、あまりたくさんの記憶は必要ない。彼の母親が恐らくやむを得ずそうしていたように、一時間一時間過ぎ去る日々にぴったり身を寄せている必要があった。(『最初の人間』、アルベール・カミュ、大久保敏彦訳、新潮社、1996、p.78)

 つまり、貧しい者はその記憶さえ貧しいのだ。この引用したカミュの言葉ほど貧しさというものを的確に表現した言葉を私は知らない。
 このフランス領アルジェリアを舞台にした「最初の人間」という作品では、私にとって思い出すのも苦しい、しかし、なつかしい、貧しい人々の生活が描かれている。
 たとえば、私が子供の頃、「犬捕り」という人々がいて、うっかり犬を放し飼いにしていると(と言うより、昔の田舎では放し飼いが普通だった)、その男たちに捕らえられ、どこかに連れて行かれ、もう二度と帰ってこなかった。自分の犬ではなかったが、そういう運の悪い犬がたくさん檻につめこめられ、連れ去られていくのを、ぼんやり見ていた記憶がある。これと似た場面が「最初の人間」にもあり、その「犬捕り」をフランス人によって差別されているアラブ人がしていた。そのアラブ人の男をフランス人の子供がよってたかっていじめる。私も友達がいっせいに「犬捕り」に石をなげつけていたのを覚えている。映画を見ていて、その記憶がよみがえり苦しくなった。好きで「犬捕り」をやる者などいない。
 また、たとえば、これは原作にはないが、主人公のジャックが上級の学校に奨学金をもらって進もうと勉強に励んでいると、いきなり、同じクラスのアラブ人の少年に羽交い締めにされる場面がある。そのアラブ人の少年はジャックに「おかま野郎、おべっか野郎」と叫ぶ。貧しく差別されているアラブ人の自分には未来が閉ざされているのに、貧しくともフランス人のジャックには未来が開けていることを嫉妬しての怒りなのだ。このジャンニ・アメリオ監督が新しく作った場面にも私は既視感を覚えた。
 子供の頃、無数の同じような出来事が私のまわりにもあった。私自身は差別されたことはなかったが、差別する者に激しい怒りを覚えた。今も子供たちのあいだでは同じような差別があるのだろう。『週刊朝日』が橋下徹を差別したように、今も大人たちのあいだには生まれによる差別、民族による差別がある。当然、子供たちのあいだにも同様の差別がある。子供は大人を真似るのだ。そしてそのまま大人になり、また差別する子供を育てる。だから、私は差別をしない人間として私を育ててくれた大人たちに感謝しなければならない。想像にすぎないが、カミュもそういう生まれによる差別をしない「最初の人間」として自分を育ててくれた大人たちに感謝するため、「最初の人間」という作品を書こうとしたのではないのか。誰もが差別をしない「最初の人間」になれば、その「最初の人間」に育てられた子供たちはもう差別をすることが不可能になる。そして誰もが「最初の人間」になれば、生まれや民族による差別はなくなる。たぶんこれがカミュの書きたかったことだと想像する。