金光翔への集合暴力(1)

 前回「コップの中の嵐」で、次のように述べた。

 言うまでもないことだが、長瀬が私に対して集団で行おうとしたことこそ、ジラールが繰り返し論じている模倣の欲望による集合暴力なのである。自分の自尊心に気づいていない集団の成員が、結局そのため、模倣の欲望に憑かれ、互いの欲望を模倣し、個性を失い均質化される。そして、集団にとって異質な存在を「犠牲の山羊」として血祭りにあげ、排除するのだ。たとえば、佐藤優が岩波の『世界』編集部の金光翔に集合的暴力をふるい編集部から追い出したのも、佐藤や『世界』編集部の人々が自尊心の病に憑かれていたためだ。このような佐藤と『世界』編集部の振る舞いを批判するため、私は「<佐藤優現象>に対抗する共同声明」に署名した。

 しかし、ジラール理論を知っていて、同時に、自分の自尊心の病に気づいているという二つの条件を満たしている人にとって、以上のことは「言うまでもないこと」だろうが、そうでない人にとっては「言うまでもないこと」ではないだろう。ここはやはり説明が必要だ。そこで「言うまでもないことだが」という言葉を取り消し、岩波の『世界』編集部による金光翔への集合暴力あるいはリンチを例に取りながら、模倣の欲望による集合暴力について簡単に説明しておこう。簡単に、と言っても、そう簡単に説明できることではないので、複数回に分けて説明することになるだろう。

金光翔への集合暴力
 まず、金光翔の「新潮社・早川清『週刊新潮』前編集長・佐藤優氏への訴訟」での「原告陳述書」を取り上げよう。
 金光翔のこの陳述書を読むと、誰でも岩波書店と雑誌『世界』が現在どれほど右傾化しているのかが分かるだろう。ここで私がいう「右傾化」とは、ある民族あるいは国家の成員(メンバー)が自分たちの利益を守ることだけに汲々とし、これまで自分たちが他の民族あるいは国家の成員に加えてきた暴力について選択的健忘症に陥るということだ。
 たとえば、金光翔がその訴訟の参考文献として挙げている「姜徳相「日本の植民地支配の未決算と「在日」韓国・朝鮮人」という講演記録を読めば、日本国家が明治以来、隣の朝鮮民族に対してこれまでいかに残酷な暴力を加えてきたことが分かる。岩波書店と雑誌『世界』は、このような右傾化した国家の中で、右傾化のいわば防波堤の役目をになってきた。その防波堤がいま右傾化の波に呑みこまれ姿を消そうとしているのだ。なぜそんなことになったのか、という問いに答えるのは別の機会にゆずり、今は金の陳述書を読みながら、岩波と『世界』がどんな風に右傾化しているのかについて述べてみよう。
 金光翔は大学卒業後、出身大学の子会社で3年半ほど調査業務を行っていたが、岩波書店が中途入社の人員を募集しているのを知り、応募する。応募したのは、金が岩波書店に好意を持っていたからだ。また、『世界』(2003年2月号)の編集部の名で発表した「朝鮮問題に関する本誌の報道について」という文章に深い感銘を受けたからだ。金がその文章で感銘を受けた箇所を金のブログからそのまま引用しておこう。

 そこ(その文章:萩原)では、「本誌がいま改めて自らの朝鮮報道の基本的姿勢について明らかにしようとするのは、第一に、現在の北朝鮮バッシングや日朝正常化を一歩も進めまいとする言説、あるいはそれに対する意識的、無意識的な同調の中に、従来から変わらぬ日本人の朝鮮認識の歪みがまたしても見出されると考えるからだ。」との前提の下、「本誌が朝鮮との関係を日本の根深い問題と位置付け、これに取り組むのは、まずこの異常さを日本人が認識し、自らの責任で解決しようと努めること、そして私たちが踏みつけ奪おうとしてきた隣人と心の底から和解するためである。それが、日本近代史の最大の歪みを正し、日本人の中に道義と正義を回復することになる。北のためでも、南のためでもない。まず第一に、日本人自らのためである。」「日本と朝鮮の和解のためには、朝鮮半島の人々がもっとも望み、またもっとも苦しんでいる問題の解決に、日本が尽力することではないか。それは南北の和解と統一という問題である。」「民間の一雑誌が、一体民族間の和解や南北分断の克服といった大きな課題に、どれほどの寄与ができるのか、といわれるかもしれない。しかし、本誌はそれを担おうとしてきたし、またこれからも担おうと覚悟している。戦争、対立、分断ではなく、平和、和解、連帯を。本誌の一貫した姿勢はこれに尽きる。」との、同誌の「朝鮮問題」に関する「基本姿勢」が示されており、その姿勢は過去を通じて「一貫したもの」であるとされていました。また、文章全体に見られる情勢認識や歴史認識も、概ね同意できるものでした。

 「朝鮮問題に関する本誌の報道について」という文章は、『世界』あるいは岩波書店が読者とのあいだに結んだ約束、あるいは社会と結んだ公約とでもいうべき文章だろう。それは朝鮮問題にとどまることなく、これまで日本が中国を始めとするアジア諸国に加えた暴力を忘れることはないという『世界』あるいは岩波書店の読者に対する公約とも言える。このような公約を岩波が裏切ることはありえないだろう、そう確信した金は岩波の入社試験を受け、採用され、宣伝部を経て、2006年4月1日付で、あこがれの『世界』編集部に配属される。金は希望に満ちて編集の仕事を始めたに違いない。
 ところが、その希望はすぐ幻滅に変わる。そのとき、すでに佐藤優が『世界』の常連執筆者になっていたのだ。『世界』の「朝鮮問題に関する本誌の報道について」という公約は有名無実のものになっていた。
 すなわち、金は『世界』に配属されてまもなく、佐藤優が『世界』と対立関係にあったはずの右派メディアで、北朝鮮への武力行使の必要性、在日朝鮮人団体への弾圧の必要性を主張していることを知る。佐藤は北朝鮮問題以外の外交問題についても、右派メディアで、日本の国益のみを重視する主張を繰り返していた。そのことについて金は原告陳述書で次のように述べている。

・・・被告佐藤は、上の点だけでなく、イスラエルレバノン侵略の肯定、首相の靖国参拝の肯定、『新しい歴史教科書』とその教科書検定通過の擁護、朝鮮半島の統一が日本の国益に適わないという主張、日朝交渉における過去清算の徹底的な軽視など、私としては絶対に許容できず、しかも、『世界』の従来の論調と真っ向から対立していると思われる主張を積極的に行なっていることを知りました。私としては、雑誌はなるべく多様な見解が載ることが好ましいと考えていますが、上に挙げた論点は、『世界』としては譲れないはずの重要なものばかりであると考えました。

 このため、金は『世界』のボスである岡本厚編集長とその側近の編集者に、佐藤の右翼的な発言を紹介しながら、佐藤を起用するのはおかしいのではないかと批判する。言うまでもないことだが、このような批判は、「朝鮮問題に関する本誌の報道について」という「公約」を信じて入社し、『世界』の編集に携わっていた金にとっては当然のことだった。また、これも言うまでもないことだが、金でなくとも、『世界』のその約束を信じて購読している読者なら同じように批判するはずだ。また、批判しない方が狂っているのだ。
 金が佐藤の発言を紹介したのは、岡本編集長たちが佐藤の正体を知らないのだ、と金が推測したからだ。ところが、岡本編集長たちは佐藤が右翼であることを十分知っていた。それにも拘わらず、佐藤を起用し続けていた。この事実を知ったときの衝撃を金は次のように回想している。

・・・岡本やこの編集部員は私の見解を受け入れませんでした。岡本は、「君はそう言うけれど、佐藤さんは僕に対して、「『世界』はもっと朝鮮総連の主張を掲載してはどうか」って言ってるんだよ。また、和田春樹さんも佐藤さんとよく一緒に行動している」と、また、この編集部員は、「確かに自分も朝鮮総連イスラエルに関する発言は問題だと思うから佐藤さんに言ったことがある。だが、佐藤さんには佐藤さんの「戦略」があって発言している」旨を答えました。
 私は、それらの見解に全く同意できず、そもそも編集者はそうした「裏の事情」によって原則を曲げてはならないと考えたので、同意できない旨を述べました。
 また、編集会でも、被告佐藤を起用しようという企画に対して、上で挙げた被告佐藤の発言の趣旨のいくつかを挙げ、反対したのですが、私の主張は否定されました。

 「[file:yumetiyo:ドストエフスキーの壺の壺.pdf]」で述べたように、またハナ・アーレントが述べているように、私たちは自分が「何者」("who")であるのかということを誰にも隠せない。なぜなら、私たちが「何者」であるのかということ、つまり、私たちの「正体」("who")とは、私たちの活動や言論の中で生まれてくるものであるからだ。その活動や言論は私たち自身には見えない。私たちは自分で自分を見ることはできない。それを見ることができるのは、他人だけだ。従って、私たちは自分の正体を誰からも隠すことができない。
 この意味で、佐藤優の正体は右派メディアでの言論において明確に現れているのだ。それ以外に佐藤の正体はない。従って、佐藤は自分では隠しているつもりかもしれないが、佐藤が右翼であり、『世界』などの左派メディアで自分の正体を隠しているということは誰の目にも分かることなのである。このため、岡本たちにも佐藤の正体は分かりすぎるほど分かっていた。だから、岡本の側近である編集部員は佐藤が右翼であることを認め(「確かに自分も朝鮮総連イスラエルに関する発言は問題だと思うから佐藤さんに言ったことがある。」)、しかし、それにも拘わらず、金に「佐藤さんには佐藤さんの「戦略」があって発言している」と、あたかも佐藤が右翼ではないかのような発言を行ったのだ。このようなダブル・バインド(二重拘束)的な発言に出会えば、誰もが岡本たちの正気を疑うだろう。だから、金も岡本たちに同意できなかったのだ。
 ところで、岡本厚の弁明のなかでもっとも注目すべきなのは、彼の「和田春樹さんも佐藤さんとよく一緒に行動している」という言葉だろう。金が「原告陳述書」でも述べているように、和田春樹は姜尚中とともに『世界』の中心的な執筆者だった。両者とも『世界』編集部にとって信頼すべき人物だった。ところが、岡本はジラール風に言えば、姜尚中の欲望を模倣せず、和田春樹の欲望を選択的に模倣し、「佐藤さんと一緒に行動」した、つまり、佐藤を『世界』の執筆者として起用したのだ。少なくとも姜尚中の欲望を模倣しておれば、佐藤を『世界』の執筆者として起用することは、佐藤が右翼であると判明した時点で直ちに、やめていただろう。しかし、岡本は佐藤を起用し続けた。このため、金はそれが『世界』の読者への約束に違反するものであるとして抗議したのだった。
 この金の抗議にも拘わらず、岡本厚の和田春樹に対する模倣の欲望は消滅しなかった。しかし、これが模倣の欲望なのである。模倣の欲望に憑かれると、モデルの欲望がそのまま主体の欲望になり、主体はそれがまさか他人の欲望だとは思えなくなる。言い換えると、主体は自分が主体的に判断していると錯覚するのだ。だから岡本は誰が考えても正当な金の抗議を退けることができたのだ。
 なぜそんなことになるのかについて、もう少し詳しく述べよう。ジラールはそのドストエフスキー論で次のように述べていたのだった。本論とは関係のないことだけれど、次の引用の後半は、「『ドストエフスキー 父殺しの文学』批判(6)」で指摘したように、亀山郁夫鈴木晶の翻訳から剽窃した箇所だった。

 もしこの二つの中編(『分身』と『地下室の手記』:萩原)が実は同じ一つのものだとすると、ゴリャートキン(『分身』の主人公:萩原)の幻覚の究極的な原因は自尊心にあるはずである。自尊心の強い者は孤独な夢の中では自己を唯一不可分(太字の箇所に織田訳では傍点が打たれている:萩原)のものとして考えているが、挫折においては、軽蔑すべき存在と軽蔑すべき観察者とに分裂する。彼は自己に対して〈他者〉となる。挫折によって、彼は彼自身の無価値をあばいて見せるこの〈他者〉の立場に、自己に敵対して、立つことを余儀なくさせられるのだ。したがって、自己の自己に対する関係および他者に対する関係は二重の両価性によって特徴づけられている。
 「わたしはもちろんわれわれの役所の上から下までの一切の役人を憎み、そして軽蔑していたが、しかし同時に恐れてもいたのだと思う。この連中を自分よりも上に置くことすらあった。私にとってその種のことはいつも急に起こった。私はあるときはこの連中を軽蔑し、あるときは称賛していた。正直で教養のある男は自分に対してきわめて大きな要求をもち、ときには憎悪に至るまで自己を軽蔑するのでなければ、強い虚栄心をもてないのだ。」[『地下室の手記』第二部第一章]
 挫折によって、二重の運動が発生する。軽蔑すべき観察者つまり〈私〉のなかの〈他者〉は絶えず〈私〉の外部の〈他者〉、勝ちほこるライバルに接近する。他方、すでに見たように、この勝ちほこるライバル、この私の外部の〈他者〉の欲望を私は模倣し、彼は私の欲望を模倣する(ように私には思われる:萩原)のであるが、彼は絶えず〈私〉に接近してくる(ように私には思われる:萩原)。意識の内部の分裂が強化されるにしたがって、〈私〉と〈他者〉との区別はあいまいになる。この二つの運動が互いに同一地点をめざして接近し、分身の「幻覚」が発生するのだ。意識に打ちこまれた楔(くさび)のように、障害はあらゆる内省の二つに分裂しようとする傾向を激化させる。この幻覚現象は地下室の生活を規定しているあらゆる主観的および客観的な分裂の帰結であり、総合なのである。
(『地下室の批評家』、織田年和訳、白水社1984、pp.79-80)[( )内は萩原の注釈あるいは解釈]

 ここでドストエフスキーがいう「地下室」とは、すでに二十六年前に論じたことだが(「『地下室の手記』とサルトゥイコフシチェドリン」、『むうざ』1号、 pp.107-120 、1984)、文学史的にはチェルヌイシェフスキーの『何をなすべきか』との論争関係を暗示する言葉だ。
 しかし、それは一方で、分身幻覚が発生する場所を指してもいる。この場合、「地下室」とは、象徴的に、自分の自尊心の病に気づいていない者が生きる場所を指しているのだ。
 このような事態は自尊心がゴリャートキンあるいはドストエフスキーほど強くない者にとっても同じことだ。彼らの生きている場所もまた「地下室」なのである。なるほど、あまり自尊心の強くない人が『分身』で描かれたような狂気に陥ることはないのかもしれない。しかし、決して自分の自尊心に気づくことのない人、すなわち自尊心の病に憑かれた人であれば、『地下室の手記』のような分身幻覚なら、強弱はあるにせよ、誰もが経験している事態なのだ。いや、自分には断じてそんな経験はない、と怒る人がいるとすれば、そういう人こそ、そのゴリャートキンなみの強烈な自尊心の病のため、近い将来、『分身』で描かれたような狂気に陥るだろう、と予測できる。
 岡本厚の自尊心の病がどの程度のものかは知らない。しかし、彼が自尊心の病に憑かれ、和田春樹に対する分身幻覚に憑かれていることは明らかだ。ジラールが言うように、岡本厚において「〈私〉(=岡本)と〈他者〉(=和田)との区別はあいまい」になっているのだ。言い換えると、排外主義者である佐藤優を認めるという和田春樹を岡本は模倣し、和田と融合あるいは一体化しているのだ。岡本が自尊心の病に憑かれていなかったならば、金のきわめて常識的な批判を受け入れ、佐藤の起用を思いとどまっただろう。
 ところで、この岡本編集長の和田春樹をモデルとする模倣の欲望(排外主義者の佐藤優を容認するという欲望)は、岡本を媒介として、金を除く、岡本の子分である『世界』編集部員全体に伝わる。それは一瞬のうちに伝わったのだ。このため、排外主義を認めることができない金は孤立し、『世界』編集部の「犠牲の山羊」に仕立て上げられる。金はそのことについて陳述書では少ししか触れていないので、金の「首都圏労働組合 特設ブログ」から引用しながら、金がどんな風にジラールのいう「犠牲の山羊」あるいは「身代わりの山羊」に仕立て上げられてゆくのかを見ておこう。
 金はある編集部員の差別発言を批判する。これは「朝鮮問題に関する本誌の報道について」を読者への公約とする『世界』編集部においては、当然の批判だろう。ところが、驚くべきことに、金は自分のこのきわめて常識的な批判のため、編集部の全員にシカト(無視:萩原)されるようになる。模倣の欲望の連鎖を見事に明示した文章なので、長くなるがほぼ全文引用させていただく。

 そもそも、私が岡本氏に『世界』編集部からの異動願いを出したのは、基本的には佐藤優を使うという『世界』の編集方針を理由としたものだが、もう一つ、『世界』編集部内での、差別発言への私の批判をきっかけとした人間関係の極端な悪化の問題もあった。この件の経緯を簡単に説明しよう。
 その前に、当時の『世界』編集部内の人員を簡単に見ておこう。
 当時の編集部の人員は、岡本氏を入れて6名である。私の他、年齢順で挙げると、30代後半〜40代の女性が2人(うち1人をA氏とする)、30代後半の男性、30代前半の男性(現在は他部署)がいた。すべて私より年上である。
 『世界』編集部に2006年4月に異動して、私が驚いたのは、配偶者が中国人とのことであるA氏(もちろん日本人)が、中国人差別発言を大っぴらにしていることと、それを聞いている岡本氏を含めた編集部員たちが誰も注意しないことであった。「中国人は嘘つき」「中国人は腹黒い」「中国人は約束を守らない」といった発言を日常的に行い、会議中でも平気でそうした発言をしていた。日本社会の否定的な側面についても、「まるで中国みたい」といった表現を使っていた。
 私の前職は、出版関係とは無関係の仕事であったが、その職場でも、学生時代にアルバイトで働いたいくつかの職場でも、『世界』編集部の前にいた宣伝部でも、こんな差別発言を公然とする人間にお目にかかったことはなかった。しかも、それを誰も注意しないのである。よりによって「良心的」「進歩的」ということになっている雑誌の編集部が、こんな状態であることに、私は唖然とせざるを得なかった。
 私はこうした発言を聞くたびに、非常に不快に思ったが、異動してきたばかりであり、部内では最も若輩という引け目から、黙っていた。そうした発言を注意できない自分の怯堕にも腹が立った。
 他の編集部員はどのように思っているのだろうか?私は、30代後半の男性に、この件についてどう思っているか聞いてみた。確か、2006年の夏から秋頃だったと思う。
 彼の見解は、「Aさんがそうした発言をしているのは、彼女が母親に電話して、夫や夫の実家の愚痴を言っているときだろう。プライベートで言っているだけなのだから、いいのではないか」とのことであった。
 私は、A氏が母親にそうした愚痴を言っている光景に出くわしたことはないが、この人物はそこでそうした発言を聞いていたらしい。私は、A氏が、会議中や職場の日常でもそうした発言をしていることを指摘した。また、「プライベート」というが、職場で(自分の席で)電話しているわけだから、プライベートも何もないだろう。
 いずれにせよ、この男性は、A氏の差別発言を特に問題視していないことがわかった。
 その後、2006年の秋頃、A氏とたまたま職場で2人になった際、A氏は仕事上の電話の中で(私は彼女の真向かいの席なので、聞きたくもないのに声が聞こえてくるのである)、ロシア人は何を考えているかわからないといった話をしていた。彼女は別の時に、ロシア人を「ロスケ」などと呼んでいたこともあり、私は我慢できなくなって、彼女が電話を終えた際、職場で特定の民族についての差別発言を聞くのは不愉快であり、今後やめてほしいこと、自分が彼女の中国人に関する差別発言を不愉快に思っていたことを伝えた。
 A氏は、「それは差別ではなく嗜好だ」と答えた。私が、「嗜好」とは好き嫌いであって、差別とどう違うのか、と反論したところ、A氏は「じゃあどう言えばいいの?『中国人は商慣行が違う』とでも言えばいいの?」と激昂した口調で言い、それでその場は終わった。
 私は、そのやりとりまでは、A氏ともそれなりにやりとりしていたのだが、その後、A氏は私に一切口を利かないようになった。
 それだけならばまだよいのだが、その後、A氏は、編集会での私の企画提案に対して、私からすれば言いがかりとしか思えないような批判をやってくるようになった。A氏の批判には、その親友たるもう一人の女性はたいてい援護射撃をし、30代の男性二人は大抵それには逆らわないので、編集会は、私には大変やりにくい場となった。
 一例を挙げれば、私が出した企画案の論旨に対して、A氏が、自分がインターネットで見たサイトの記述内容と違っていると強く主張して企画が潰れたため、編集会の後で、A氏の席に行ってそのサイトについて聞いたところ、A氏は、英語サイトを検索すればすぐ出てくる、と私の方に顔すら向けずに答えた。私はその後に検索したが分からなかったので、A氏の席に行って、分からなかったからそのサイトを教えてほしいと改めてお願いしたのだが、今度は返事すらしない、といった調子である。
 これでは仕事ができないので、私は、岡本氏に仲裁してもらおうと思い、私が彼女を注意したことをきっかけに、関係が極度に悪化し、業務にも支障を来たしている旨を説明した。その上で、もし、自分の言い方がきつすぎるとA氏が思っているようであれば、その点はお詫びするので、3者で話し合いの場を持つなどして、私と彼女の間を仲裁してほしいとお願いした。
 すると岡本氏は、自分もその件は複数の編集部員から聞いている、と答えた上で、以下のような見解を述べた。

 ・そもそもA氏の夫は中国人なのだから、彼女が中国人に対して差別的認識や差別感情を持っているはずがない。だから、A氏の中国人に関する発言は、軽口の範囲として認識すべきであって、みんなそうしているし、金のように注意するのは非常識だ(岡本氏は、怒りながら、光栄(?)にも、「あの小熊君ですらこんな非常識なことはしなかった」とまで言ってくださった)。
 ・A氏が差別感情を持っているとしても、金が、本当に彼女の差別的認識を変えたいのであれば、糾弾ではなくて(注・私は糾弾などしていないのだが)、もっと別のやり方があるはずだ。
 ・この件で悪いのは金なので、自分は改めて仲裁の場を持つ気はない。

 私は唖然として、反論したが、岡本氏は聞く耳を持たなかった。
 『世界』編集部では、この後、A氏を中心として編集部員全体で私へ「シカト」を行うような、「職場いじめ」と言わざるを得ない状態が続き、こんな状態の職場環境で、しかも会社に残っての徹夜作業も珍しくない(残業代は出ない)ような労働環境で、佐藤優を使う編集方針に従うのも馬鹿馬鹿しいので、岡本氏に異動を希望した、というのが経緯である。
 私はA氏に、差別感情をなくしてほしいなどという、高尚な(?)希望を持っていたわけではない。職場でそうした発言をするのはやめてほしい、と言ったのである(岡本氏は上記のように誤解していたので、その場で改めてそう説明したのだが)。社会常識からしても、そうした民族差別発言が横行している職場環境はおかしいし、法的にも、会社には職場環境配慮義務があるのだから、岡本氏は職制として、そうした発言が横行しないように措置を講じる必要があるだろう。
 仮に、配偶者が朝鮮人である日本人(『世界』編集部員)の朝鮮人差別発言を、私が注意した場合、岡本氏はどのように答えるだろうか。「朝鮮人への差別感情を持っているはずはないから、聞き流すべきであって、金が批判するのは非常識だ」とでも言うのだろうか。本当に言いそうで怖いが。
 岡本氏やA氏には多分、「進歩的」で「良心的」な、「日本唯一のクオリティマガジン」の担い手である自分たちが、差別発言などするはずがない、という大前提があるのである。自分たちの発言が差別発言のはずがないのだから、それを差別的だと感じたり不快に思ったりする方が異常であり、非常識である、という図式だ。
 これではまるで、小泉元首相の、「自衛隊の活動しているところは非戦闘地域である」という有名な答弁のようである。ただ、一点違うと思われるのは、小泉が恐らく、自分の発言が滑稽であることを自覚しているのに対して、岡本氏は本気だ、という点である。
 私は排外主義的主張や「言論の自由」への挑戦的発言を繰り返す、佐藤優岩波書店や左派ジャーナリズムが使うことを問題にしてきたが、考えてみれば、それも不思議なことではないのである。この事例が示しているように、彼ら・彼女らは、明白な民族差別発言にすら、特に違和感を持っていないのだから。多分、当事者(この場合では、中国人やロシア人)がその場にいれば、それに配慮する、というだけの話である。当事者がいない場所では、何を言ってもいいのだ。
 また、この「首都圏労働組合特設ブログ」で書いているように、岩波書店岩波書店労働組合は、異分子の言論を徹底して封殺しようとした(している)のであって、この点から考えても、彼ら・彼女らが、「言論の自由」を尊重する気を持ち合わせているとは全く思えない。
 彼ら・彼女らの言う「言論の自由」「思想・良心の自由」とは、国家権力のメディア規制や国旗・国歌の押しつけに対抗する際の道具であって、自分たちの主張に違和感を持つ人々に対しては、絶対に適用されないのである。まだ、右派ジャーナリズムの方が、左からのこうした批判を意識しなければならないだけに、ましであると思う。
 マスコミ業界人は独善的だ、というのは往々にして指摘されることではあるが、そうした傾向が、「良心的」「進歩的」といった社会的評価と相まって、歯止めがかからなくなり、左派が陥りがちな「同調圧力」で促進されて、このような環境ができてしまったのだと思う。
 この差別発言に関する岡本氏とのやりとりは、『世界』が自発的には、佐藤優を使い続けることをやめるはずがないことを、よく示していると思う。佐藤を使い続ける(使い続けてきた)ことへの批判は、「岡本厚『世界』編集長の「逆ギレ」」で書いた、岡本氏による私への電話対応と同じように、徹底した憎悪を持って返されるだろう。自分たちのような「進歩的」で「良心的」な、「日本唯一のクオリティマガジン」の担い手が、佐藤と組んでいるからといって、社会に悪影響を与えるような雑誌であるはずがない。こんなに「良心的」な誌面を作っている(作ってきた)のだから、自分たちにそのような悪意があるはずがない。批判するのは、自分たちの思いを理解しようとしない、非常識かつ異常な輩である、と。

 次回その理由を詳しく述べることになるが、私見によれば、佐藤優の排外主義的な欲望は和田春樹のお墨付きをもらうことによってオーソライズされ、その欲望は和田春樹を模倣の対象とする岡本厚編集長に模倣され、さらに、その岡本編集長の欲望を、金を除く、『世界』編集部員全員が模倣したのだ。このため、排外主義を受け入れない金光翔が『世界』編集部から排除されたのだった。もちろん金は自ら異動願いを出したのだが、編集部員たちの集合暴力が金の編集部における居場所を奪ったのだから、金は編集部から排除されたのである。以上を要約すれば、結局、佐藤の排外主義的な欲望によって、金は編集部から排除されたのだ。佐藤の排外主義的な欲望がなければ、金は排除されなかっただろう。このため、私は「<佐藤優現象>に対抗する共同声明」に署名したのだった。
 ところで、佐藤優のような排外主義者は、必ず自分の自尊心の病に気づいていない。これについても次回に。