徴兵制

 徴兵制について少し。
 徴兵制について率直に言えば、私自身、兵隊にとられなかったことを、あり得ない幸運に見舞われたように思っています。というのも、私自身、運動会などでそろって行進するというようなことにも嫌悪を感じる性質でした。これは子供のときからそうで、「みんなそろって」と言われると、情けない気持ちになりました。集会も苦手で、みんなそろってエイヤーとこぶしを振り上げたり、万歳を三唱するなど、殴られても蹴飛ばされてもいやでした。全共闘のデモもいやで、よくあんな恥ずかしいことができるものだと思いました。だから、個人的には徴兵制に反対です。そこには何の政治的理由もありません。兵隊になって集団生活を送るのなどまっぴらです。
 しかし、その一方で、こんなに楽な生活をしていていいのだろうかと煩悶してきたこともたしかです。罪の意識と言いますか、昔、ベトナム戦争で、私と同じ年代のアメリカ兵やベトナム兵が戦って次々に死んでゆくのをニュースで見たりすると、申し訳ないという気持になりました。国家にかぎらず、いつの時代にも人間集団同士の争いはあり、多くの血が流されてきました。自分を育ててくれた集団が脅かされると、その脅かす相手と人は戦います。争いがなくなるということはありません。自分がその戦いに参加しないでもいいということ、これは信ずべからざる幸運であるように思えました。こんなうまい話があっていいものか。これは夢ではないのかと思いました。
 戦争に反対か、と問われれば反対です。狂人でないかぎり、賛成の人など一人もいないでしょう。ですから、そんな戦争に参加することになるかもしれない徴兵制に賛成の人など一人もいないと思います。
 しかし、他人の生を犠牲にして自分だけ生き延びるということに賛成か、ということになると、実際どうするかは別にして、それに表だって賛成する人はそう多くないと思います。なぜなら、それは人間として許されることではないからです。「お前は私の代わりに死ね。」と言う人はまずいないでしょう。いるとすれば人でなしです。
 日本がいまやっていることは、そういう人でなしの振る舞いではないのか、これが私を若い頃から苦しめてきた問題です。ベトナム戦争で無数のベトナム兵が死んでゆくのをニュース映画などで見ながら、自分はあんな風に自分の国を守るというようなことはしなかった、これでいいのだろうかと思ってきました。
 今の日本を命を落としながら守っているのは誰か。アメリカ人でしょう。間接的ではありますが、アメリカ人でしょう。日本はアメリカ人の武力に守られて生きています。日本人は金だけ出して日本を守る彼らの命を買っているのです。
 吉田茂が戦後アメリカと不平等な条約(安全保障条約)を結んだとき、アメリカなんか日本の番犬に使えばいいんだと負け惜しみに言ったそうですが、その不平等な関係が今もアメリカとのあいだに続いています。要するに、アメリカは日本を憲法九条によって武装解除し、安保条約によって日本を守ると約束し、自分たちの言うことなら何でも聞く国にしたのです。これは豊臣秀吉が行った農民の刀狩りと同じです。憲法九条と安保条約というのは刀狩りなのです。武装解除し、日本が戦争をできない国にしたのです。その代わり、アメリカは日本を守らなければならなくなりました。この状態が続けば、アメリカの兵隊が間接的ではありますが、地球のどこかで日本のために命を落とし続けます。これが日本人にとって恥ずかしいことであることは明らかです。徴兵制に反対だと言う人は、この恥ずかしさに耐えることが可能な人々なのでしょう。私は耐えられない。しかし、正直、兵隊になるのはまっぴらです。この身勝手さが、また恥ずかしいことなのですが、いずれこの煩悶は煩悶では済まなくなるでしょう。