「ドストエフスキーを読む」講座について言い忘れていたことがありますので、追記します。
昨年度も『罪と罰』(新潮文庫、工藤精一郎訳)について述べましたが、今年も『罪と罰』(ただし、岩波文庫、江川卓訳)について述べます。こんなことをするのは、わたしの力不足のため、言いたいことを十分述べることができなかったからです。
今年度はそのことを十分述べるために、拙稿「ありのままに生きる――引きこもりとドストエフスキー」(『現代思想』第49巻第14号、pp.232-238)の内容を詳しく述べるつもりです。そこで述べていることほどわたしたちにとって重要かつ深刻な問題はないと思います。プーチンとその同調者(だけでなく、わたしたちの大多数)に分からないのはそこでわたしが指摘した問題です。その些細な(と見える)問題が解決しないので、わたしたちの誰もが不幸になっているのです。
それと、わたしが今年度から私的な形で講座を開くことについてひと言、ご説明します。
講座を続けてほしいという要望が昨年度の講座受講生のアンケートの大多数を占めたので、わたし自身は今年度も大学から公開講座の依頼があると思っていました。
しかし、四月になってもその依頼がなく、困惑していました。推測にすぎませんが、大阪府立大学が大阪公立大学に組み込まれたので、わたしの講座も自然消滅したのでしょう。
そこで、わたしは大阪市内で講座を開くことのできる場所を急いで確保し、連絡可能な方にのみ、講座の開催をお知らせしました。
住所などが分からず連絡できなかった方には申し訳なく思っています。また、開催曜日が不規則になったものもあり、これも申し訳なく思っています。どうかお許し下さい。
しかし、今年度の救いは、私的に講座を開くことで、奈良でベルクソンとドストエフスキーの関係を詳しく述べる講座を開けるようになったことです。従来のドストエフスキーの講座ではいろいろ制約があり、詳しくその関係を述べることができなかったので、心残りになっていました。
皆様とお会いできるのを楽しみにしています。
鈴木大介と武満徹
最近、本棚の整理をしていると、『武満徹全集』(小学館)がセロファン紙に包まれた新品の状態で出てきたのでひどく驚いた。
五年ほど亡き妻の看病に明け暮れているうちに買ったことさえ忘れていたということだろう。たしか、全三巻だったはずだが、なぜか第三巻がない。しかし、それはともかく、演奏を聴きながら、付録の冊子(と言っても、大型のしっかりした本だが)を読んでいると、武満がその死の前に絶賛したギタリストである鈴木大介のエッセイ「孤独な対話」に強く打たれた。鈴木さんは武満の突然の死に衝撃を受けるのだが、その箇所をそのエッセイから一部分引用しよう。
「・・・その後の一年は、とても辛いものでした。ようやく出会えた心のささえのようなものが、2つに折れてしまったような感じでした。それどころか、そのささえがそこにあったのかどうかも疑われるほど、武満さんの存在が遠くなってしまったように思えました。良い師に恵まれ、周囲からの励ましも少なからずあったにもかかわらず、武満さんの死によって僕は本当に孤独の檻のようなものに閉じこめられてしまったことを知りました。あるいは、ほんとうはすべての人がそうであるように、自分だけは誰かが助けてくれるという甘えから、目覚めさせられたのかもしれません。僕は、武満さんが遺した音楽を聴きあさり、言葉を読み、武満さんが好きだった音楽を聴くことで、大きく深く空いてしまった時間の溝を埋めようとしました。去ってしまった人の影を追うことは、とても不安定で、自分を満足させるだけに過ぎないこともしばしばあります。でも、武満さんの音楽を演奏して、ご本人には永遠に感想を伺えなくなってしまったのだから、どうしようもありません。仕事という仕事もそれほどない時期で、明け方まで精霊となってしまった意志との語らいを続け、日が昇ると自分の不安に押しつぶされそうになって家を飛び出し、海を眺めにいったり鎌倉のお寺に行ったりしていました。・・・」
この鈴木さんのエッセイにからめてわたし自身のことを言うのはあまり意味がないような気もするが、少し言わせてもらうと、俗物のわたしは学生の頃から武満の音楽を、ただただ武満が有名であるという理由から、レコードで聴いては、ははーと、感心したような顔をしていたが、実は、あまりひきこまれなかった。
それが、五十歳を過ぎて、子供の頃から弾いていたギターの演奏をボケ防止のために再開し、武満がギターのために編曲した曲集や作品(ひどく難しかった)を弾いてみて、彼の天才に驚き、それ以来、彼の作品の素晴らしさが少し分かるようになった。と、同時に、武満の遺したエッセイも繰り返し読むようになった。
武満の音楽を聴き、そのエッセイを読むのは、わたしの大きな喜びだ。このため、武満を失った鈴木大介の悲しみが少し分かるような気がする。
「ドストエフスキーとベルクソン」講座の開講について
「ドストエフスキーを読む」講座の開講について
プーチンは狂人ではない
プーチンのウクライナ侵攻が始まったので、邦訳された、以前読んだことのあるアンナ・ポリトコフスカヤの本(『プーチニズム――報道されないロシアの現実』と『ロシアン・ダイアリー――暗殺された女性記者の取材手帳』)を再読した。アンナ・ポリトコフスカヤはプーチン政権の腐敗不正を暴き続けたジャーナリストだ。そのため、2006年自宅アパートで暗殺された。彼女だけではなく、プーチンを批判したジャーナリストは次々に殺された。これは誰もが知っている事実だ。しかし、テレビなどでそのことに触れる人はいない。そして、プーチンは最近変わった、狂った、などと言っている。失礼ながらアホの戯れ言だ。プーチンは昔から狂っているのだ。その飽くなき上昇志向のために狂っているのだ。プーチンはスターリンやヒトラー、いや、わたしたちと同じだ。自尊心の病が彼らを狂わせているのだ。プーチンは狂人ではない。わたしたちと同じなのだ。