私生児

きのうカミさんを病院に送っていった帰り、図書館で借りた高見恭子が朗読する高見順の「私生児」を車の中で聞いた。胸に迫って涙がぼろぼろこぼれてきたので、あわてて車を停めて泣いた。「私生児」というのは高見の私小説である。高見恭子は高見の娘である。こんな悲しい小説をよく読めたものだ。

マスタベーション

きのう医者に行って、待合室に置いてあった「婦人公論」をめくっていると――その医院には子供向けの絵本か女性向けの雑誌しか置いてないのである――伊藤比呂美が同年輩の女性たちと、自分は「超高齢者」の夫を亡くしたあと、世話する相手がいないので欲求不満になった、というような話をしていた。この超高齢の夫というのは彼女がアメリカで出会った三番目の夫で、二番目の夫はポーランド文学者の西成彦である。私は伊藤比呂美の詩とか小説が好きで、昔はよく読んでいたが、そこに、西成彦のことだろうと思うが、「私が家を一週間ほど空けていて帰ってみると、夫がぐったりしていた。聞くと、このときとばかりマスをかきすぎた、という」というようなことを彼女は書いていて、何もそこまで書かなくてもいいのに、と思った記憶がある。それはともかく、伊藤比呂美は無精で家事は大キライらしい。部屋が汚くても何ともないし、食事も適当なものでいいらしい。しかし、世話をする相手がいるときちんと家事をするらしい。彼女は私と同じような種類の人間であるように思う。こういう女性と結婚したら、家の中はゴミ屋敷になり、二人とも栄養失調になるだろう。(しかし、伊藤比呂美のユーモアというのは日本人には通じにくい。大学の授業で彼女の文章を使って、そのことがよく分かった。このマスタベーションの話でも怒り出す学生がいた。どうして怒るのか。面白いじゃないか。きみは自分の自尊心に気づいていないから、そんなに怒るのだ。と、つい標準語になる自分もおかしい。)

捕捉:ユーモアというのは共通感覚の境界線上で発生します。伊藤比呂美の文章はその境界を明確に指し示し、読者の偽善をあばきたてます。つまり、読者の自尊心の病を明らかにするのです。関西の言葉で言えば、「このええかっこしい!」ということです。

早坂暁

早坂暁の追悼番組のひとつである「新・事件 わが歌は花いちもんめ」の録画を、きのう、ようやく見ることができた。今から三十数年前に放送されたものだ。足が動かなくなった七十一歳の老婆(鈴木光枝)――今なら老婆と言わない――が、嫁の手助けで入水自殺する場面をはっきり覚えている自分に驚いた。それと同時に、やはり足が悪いので入水自殺を人に手伝ってもらった西部邁のことも思いだした。人に迷惑をかけながら生きているというのは苦しいものだ。

ソンタク

人は自分で自分のふるまいを見ることはできない。したがって、日本人は永遠に「ソンタク」とは何かということを定義することはできない。「ソンタク」とはまさに日本的構造であり、それは日本人の行動全体を規定している。「ソンタク」という言葉を言い換えるとすれば、それは土居健郎のいう「甘えの構造」、森有正のいう「二項関係」、山本七平のいう「日本教」になるだろう。さらにそれを政治的な言葉で言い換えると「天皇制」という言葉になるだろう。この天皇制は日本共産党から過激派セクト、さらに暴力団自民党など、思想信条とは無関係に日本的集団そのものを特徴づけている。だから、いま国会で行われている「ソンタクはあったのかなかったか」という議論は喜劇にすぎないのである。

暴力の起源

思考において、文脈というのはもっとも重要なものだ。文脈を無視した思考は暴力にすぎない。国会中継やテレビ・新聞などを見ていると、マスコミ(左右を問わず)や国会議員(与野党を問わず)には、文脈を無視して自分に都合のよい方向に話をねじまげてゆく者が多いように感じる。わたしがやっている公開授業での質問でも、話の文脈を無視して質問をする受講生がいる。こちらを困らせようと、わざと無視しているのか、それとも本当に文脈が分からないのか。彼らは知能が低いのではない。むしろその理路整然とした話し方から、あるいはわたし以上に高い知能の持主であるかもしれないことが分かる。しかし、いずれにせよ、彼らが自分のことばかり考えているエゴイストであり、そのため、他人の話に耳を傾けることができない人間であることだけは分かる。このようなエゴイズムから暴力が生まれる。ドストエフスキーはそのことを『罪と罰』のエピローグ――ラスコーリニコフの見る「旋毛虫の夢」――で描いた。

不登校と医療

昔、大阪で「不登校と医療を考える」というシンポジウムを開いた。精神科医の石川憲彦、川端利彦、門真一郎、それと東京シューレ奥地圭子の四人にしゃべってもらった。とても有益な内容のシンポジウムになった。不登校児が精神科医にかかるさいの参考になると思って、シンポジウムの記録を本にしようとしたところ(出版社も決まっていた)、わたしは不登校の子供をもつ親たちからいっせいに批判された。要するに、「そんな本を出したら、うちの子が精神病患者だと言われるからダメ」ということであった。これは明らかに精神病患者に対する差別ではないか。ことここにいたってまだ優越感にひたりたいのか。わたしはあきれて、というか、うんざりして、長年やってきた「学校に行かない子と親の会」の運営から手をひいた。そして、このままでは怒りで頭がおかしくなると思って、大阪から和歌山の龍神村に引っ越した。しかし、いくら経っても、怒りは収まらなかった。今も怒りが込み上げてくる瞬間がある。自分の虚栄心あるいは自尊心にあやつられている人には何を言っても無駄なのである。最近はそんな人ばかりになったような気がする。

アンケート結果

公開講座のアンケート結果が送られてきました。『未成年』は読むのに難儀するので(また誤訳も多いので)、評判はよくないと思っていましたが、案外良かったので安心しました。来年度も続ける元気が出ました。マイクの音が小さいという苦情が二人からあったので、来年度はもう少しマイクの音量を上げようと思いますが、若い人には迷惑かもしれません。そのときはお知らせ下さい。